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 日々がつつがなく、真っ当に過ぎている。  蒼介からの連絡はしょっちゅうあるし、くるたびに異臭を思い出して喉がつっかえる。仕事を詰め過ぎて、目眩と悪臭が重なることも多々あった。死ね! と心のうちで繰り返すことも少なくなく、けれどなぜだか、蒼介に呼び出されたらそちらに足を運んだ。あるときは彼のマンション、あるときは居酒屋、あるときは中華、あるときはイタリアン、タイ料理、ベトナム料理、香辛料の香りと味が強ければ強いほど、律は蒼介から放たれる異臭の存在理由がわからなくて、彼を何度も見つめた。何? と聞かれれば首を振り、灰色の雨水が潜む瞳を眺める。まばたきされると一層、彼の目は泥水にまみれた。  悪臭の理由は、この湿地帯から生まれるものだろうか。わからないからチノパンのポケットに手を突っ込み、返さなければならない蒼介の部屋の鍵に触れた。形取るようになぞり、結局取り出せないまま約束するたびに持ち歩いている。  鍵持ってていいよ、と蒼介は言う。少しだけ気恥ずかしそうに目を伏せられ、鼻の奥がつっかえて痛んだ。胃液が込み上げそうになる。気持ちわる、死ね! と何度も思った。  話す内容は、なんということもない、日常の話だ。学生時代のころの会話と相違ないもので、はたしてそこには、彼に対する違和感や嫌悪感などなかった。区役所の総務部健康福祉課ときたら、やることも苦情もそこそこあるようだ。窓口担当の人間が席を外していたら、引き継ぐために話を聞くことも少なくないらしい。区民の相談内容に、やがて家庭や周辺への愚痴や不満が混じり出すと、うんうん、と頷きながら聞き、また一から説明するのだと言う。 「なんていうか、第三者に聞いてほしいんだろうね。家族みたいな近くの誰かとか、身近な他人っていうより、自分とまったく関わり合わない第三者に」  へえ、と感心していると、なんだよやめろよ、とばつが悪そうに頭を掻いた。グラスを叩きつけて発狂したように声を荒げた蒼介とは、まるで別人のようだった。  気兼ねない友人、の枠にいるようで、そうでもない。二人は二人でいるとき、核心を得る話をすることはなかった。なんであんなことをしたの? とか、足は大丈夫だった? とか。足りないと予想されるのは圧倒的に言葉だとわかっているのにも関わらず、つつがなくその日が終われるのはおそらく、あるべき言葉を使わなくてもすむ術を、二人が持っているからだろう。  律もおかしな八つ当たりで飾った長文の文章なんてもう送らないし、死ね! なんてもっての外だ。蒼介の部屋に泊まることがあっても、部屋はもう荒れていないし、清潔で整頓されていた。  律、と屈託なく彼が呼ぶほんの一瞬、そして蒼介の部屋に足を踏み入れた瞬間、鼻を過ぎるように現れる激臭だけは健在のまま。つつがなく、真っ当に、日々は過ぎる。  律、今日暇ならうちで飲もうよ。  そのラインが届いたのは、金曜日の正午過ぎだった。この日、律の仕事は休みで、詰め過ぎたシフトがたたったのか未だにベッドから抜けられないでいた。いいよ、とだけ返信を打ち、すぐ横に置いてある小さなテーブルにスマホを戻した。五月の連休前のこの時期は天候も安定していて晴れやかで、ベッドの中がとても心地良かった。ただ腹は減る。締め切っていたカーテンから溢れる光の筋を枕から眺めるものの、なかなか抜け出す気にはならない。  またスマホが短い着信音を鳴らした。いいよっつったろめんどくせえな、どうせ蒼介だろうとテーブルに手を伸ばし、スマホを取った。開くと相手は、以前ここに来た女性だ。久々だと内容を見ると、近くにいるから休みならお昼どう? という些細なものだった。  なんか買ってきて、おごる。返信すると、ぴょこ、と気安い音が鳴る。どうしたの? 具合悪い? 即レスがあり、笑ってしまった。ちがう、めんどくさくて。うまそうなていくあうと。よろしく。漢字に変換するのも億劫で、カタカナにも変えずに送信していた。するとすぐに、可愛い猫のスタンプが送られてくる。かしこまり、と猫の横に書かれてあった。はたと浮かぶ。彼女には、一切の嫌悪も異臭も感じないことを。かといって、瞳に水を含んでいると錯覚して見つめたことも、逆に抜きん出た好意もない。  好きの反対は、嫌いじゃない。無関心、だったっけ? ふと笑んでしまい、また頭から布団を被った。  寝ていると彼女は来て、おじゃまー、と我が物顔でテーブルの前に座った。律はお茶を出し、付属の割り箸で食べた。話題のイタリアンのテイクアウトらしい。おいしいんだよ、友達ともよく行くの、などと話していて、うん、うん、と相槌を打つ。そんなにうまいか、と疑問が浮かんだものの、律の舌が敏感であるとは言い難い。おそらく味が合わないだけだろう、それとも。  計らずも浮かんだひとの造形がおぞましくて、食べ物と一緒に唾を飲み込んだ。ちょうど噛んでいた食材が瑞々しい緑の葉っぱで、この上なく惨憺たるものがあり、ぎょっとする。 「クレソン嫌い?」 「クレソンっていうんだ」  そうそう、彼女はころころと笑った。浮かんだひとを頭の中からも口内からも追い出すように、律は彼女に覆い被さった。まだ残ってるじゃん、もういいよ腹いっぱい、そうして誤魔化してふわふわでさらさらの腕に触れた。口の中で、クレソンの苦味が残っていた。 「佐伯くん、めっちゃ鳴ってるよ?」  ひと段落終え、また眠っていると、細い掌に肩を揺さぶられて目が覚めた。目を開ければ、長い髪の毛が頬にかかる。指で退けて起き上がると滑らかな曲線を描く体がそばにあって、律はまたそこに顔を埋めたくなる。迷わずそうすると、きゃっきゃとくすぐったそうに彼女は声を出し、それからまた、言う。 「だからね、スマホ鳴ってんの」 「は?」 「さっきからずーっと!」  顔を上げると同時に体も急に動いたからか、衣擦れの音がひどかった。いま何時? 聞くと彼女は、知らないよ、と答える。だよなあ、と平静に、およそへらへらと返答する余裕もなく、テーブルに置いていたスマホを手に取った。何件もラインが届いていて、合間に着信もあった。パスコードを入れて開くと、着信十件にラインは何通か、数えるのも恐ろしい。デジタル時計は十九時を回っていた。  律、どこ?  ねえ律。  律ー?  律? まだ家にいる?  どこにいんの? おれもう家だけど。  途中で着信の通知が入っている。ライン電話だけでなく、ただの着信も合わせて何件もあった。  律、まただろ?  どうせまた女なんだろ?  もうやだ。  律はそうだよな、別におれがいなくたっていいよな。  むしろいないほうがいいんだろ。  いなくなってやる。もう知らない。  ムカつく。  嫌い。  死んじまえ。  なんだこいつ、なんだこいつなんだこいつなんなんだよ蒼介! 「おまえが死ねよくそったれ!」  語気を荒げてスマホをフローリングに投げつけると、ひっ、と甲高い声がして振り返った。細っこい女性が、裸で律を見ている。 「ちょっと佐伯くん、怖いんだけど」 「出かけるから帰ってくんねえ?」 「え?」  放置してあるカットソーを手に取って被り、少し離れた場所にあるデニムを履いた。 「ほら、早く着替えなよ。俺もう行くから」 「ひどくない? もしかしなくてもラインの相手だよね? ていうかさ、何回も送ってきて怖すぎ。はは、ストーカーじゃん」  こわー、と嘲笑しながらも、彼女自身巻き込まれたくはないのだろう。下着を手に取り、すぐに着替え始めている。彼女を見下ろしながら、そうだよなあ怖いよなあ、と冷静に真っ当な感想が浮かんだ。律も一緒に嘲ったって構わないし、至極当然だと呆れて放っておいても問題ないだろう。明らかに、蒼介の行動が理解不能。他人を理解する行為が浅ましいのだとしたら、そもそも彼を自分の常識に落とし込む必要がないじゃないか。放置に限る。  いやだから、そうじゃなくて。  そうじゃなくて、何度も何度も何度も、律律律、律って! どこにいるのかいないのか自分はもう家だとかなんだとか女がいいとか悪いとかいないほうがいいとか知らないだとかムカつくとか嫌いとか。 「おまえが言うな」 「なにー? 着替えてんじゃん」 「怖いとかムカつくとか俺が一番知ってんの。言っていいのは俺だけだから早くしろ」  早く! 怒鳴ると彼女は目を見開き、口をぱっくりと開けて、ぎゅうっと閉じる。口紅の取れた渇いた唇が、小刻みに震えていた。ほどなく、テーブルに置いてあったふたつのグラスのひとつを手に取り、残っていたお茶を律にぶちまけた。ついでにもうひとつ手に取り、それは投げるようにしてぶっかけられる。がらん、フローリングとグラスが交わる、不躾な音が響いた。生憎、グラスは割れていない。  顔も頭もずぶ濡れで、カットソーを脱いでそれで拭いた。新しいカットソーをカラーボックスから漁っているところで、玄関の開閉の音がする。どうやら彼女は、出て行ったらしい。  ぽつり、と拭き切れていない水分が、髪の毛から一粒溢れた。    
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