6-3

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 インターホンを鳴らした。三度は連続で絶え間なく鳴らした。蒼介が玄関ドアを開ける気配はなく、はたしてそれを知っていたくせに苛立った。  デニムのポケットに手を突っ込み、鍵を探る。普段使うキーリングにも通していない孤独な鍵が、鍵束からひとつぽつんと離れて浮いていた。他と一緒にする気は毛頭なく、たったひとつきりの鍵を取り出して玄関を開け、足を踏み入れてシュークロークの上に置いた。掌を思い切り、木の板に叩きつける。不穏な大きい音が、しんとした廊下に響いた。  真っ暗な廊下から、ぐうっと迫りくる悪臭に鼻で呼吸をするのを止める。手で口を覆うものの、確認するように息を吸うと無臭だ。特別際立った匂いはしない。あるとすれば、他人の部屋という慣れない匂いだけだった。脇にあるスイッチを入れると、ぱっと灯りが点いた。スニーカーを脱ぎ、足の裏を派手に鳴らして照明の灯っていないリビングへ向かう。廊下のおぼろげな光だけで、ドアを開けた先の部屋がぼんやりと色づいた。リビングの灯りを点けた向こう側に、ソファの前で膝を抱えてうずくまっている蒼介がいる。その顔を上げる。  むわりとまた、湿気が絡む。激臭が鼻を伝う。それらをすべて喉に抱え、飲み込み、律は蒼介に近寄った。胸ぐらを両手で掴んで引き上げる。 「おまえ臭えんだよ!」  あられもなく、難癖もいいとこだ。実際彼からは今、何も匂わない。詭弁にもほどがある。蒼介の顔は蒼白して、震えていた。 「いなくなってやるってなんだ、もう知らないってなんなんだよ!」  彼の胸ぐらから手を離すと同時に、思い切り突き飛ばした。背中をフローリングに打ちつけた蒼介は、うめいて律をねめつける。 「そのまんまの意味だろ! 律なんかもう知らない! どうせまた女と寝てたくせに!」  寝たからなんだ、蒼介になんの利害が及ぶのか。はたして契約でもあったか、主従関係でも結んだか、どれもこれも理不尽だし理屈が通らない。  蒼介は起き上がり、律に近寄り、側にあった本を投げつけた。角がこめかみを擦り、鈍い痛みが走る。壁にある本棚から本を雪崩のように一気に落として、騒音を鳴らした。衝撃が大きく、室内に響く。彼は落ちた本を手に取り、律めがけて投げる。腕に当たる。次は足、脇腹、肩、頭、何冊もある本が、順に律の体を責め立てた。  立ち尽くしたまま、まったく寄り添えない暴力を受け、蒼介の咆哮を律は聞く。  律はなんで! どうして! 律は女ばっかり! 前もそうだった! ずっと前もそう! いっつもそう!  律! 律律律!  一冊投げられるごとに、律は半歩近づく。次は角が肩に当たる。それでもまた、半歩近づいた。ずり、ずり、と素足を引きずるたび、フローリングがうなりを上げる。  女がいいんだろってなんだそれ、と今も思う。ついさっき、その女性を放置して慌てて着替え、怖いと嘲笑され、怒鳴りつけ、お茶とグラスをぶち撒かれた。髪の毛から伝った液体が、ほど良く冷たかった。  知らないくせに、と思う。おまえはそれを、知らないだろう。 「いなくなれ! 律が先に目の前から消えろ! おれの前から消えろ! おまえがいるから!」  ときどき辺りを見渡した。寝室に通じる引き戸は開けっ放しだった。衣類も書類も散乱していて、ベッドも布団もシーツもめちゃくちゃだった。おそらく、律がここに来る前に蒼介が荒らしたのだろう。リビングはもちろん、いつもは整然とした室内がひどい有り様で満ちている。ときおり蒼介の、瞳の色を見た。彼の目は泥水とか汚水とか雨水とか洪水とか、いつだったかテレビで見た、遠い国の大きな茶色の河のように汚れていた。  鬱蒼とした木々が河周辺に植わっていてそびえ立ち、爽やかさなど微塵もなく、ただ恐ろしかった。渇望する生き物だった。蠅も昆虫も至るところに飛んでいるなか、船乗りが手作りの古い船に乗り、ぼろぼろのオールで漕いでいた。ああー、あんな場所絶対行きたくねえー、なんて思ったのだ。密林、画面越しから伝わるまとわりつきそうな高い湿度、絡まる温度、きっと異臭がするに違いない。生きるために必要な努力を自分が怠ると食われてしまうんじゃないか、そこには住めないと直感した。  蒼介の目は、薄汚れた泥水が、埋まっている。  ぶつかり続ける衝撃は本だけでなく、蒼介の手によって殴られ、足に蹴飛ばされ、すっ転んでは起き上がる。  くそやろうくそやろうくそやろう! 「あーーー! うあーーー! いってえんだよくそが! 食われてたまるか死ね死ね死ね! てめえが死ねくそったれ!」  攻撃がぴたりと止み、律は一歩踏み出した。蒼介の肩を掴み、それを壁に押し付けた。すると平手が飛んできて、強い打撃を頬に受ける。次は足が出て、膝の辺りに衝撃が走った。いてえんだよ! 弾くように叫んで、律は蒼介の髪を掴んで壁に打ちつける。堪えてもいないのか、彼はぎろりと下からねぶるように睨んでくる。歯を食いしばる。顔を殴るのはなぜだか理性が働き、拳を握り締めたまま、すぐ側の壁を殴った。  だって、こいつ、仕事一生懸命だし、第三者に聞いてもらいたいんだって、そう言って! 「俺は! おまえに! おまえになんか会いたくなかった! 忘れたくて仕方なかった! 先に裏切ったのおまえだろ!」  蒼介は、はたして心外だといったように眉をひそめる。 「ノートに恨み言書いたのおまえだろ!」  彼は目を見開いた。 「母ちゃんが死んだとき俺のそばにいなかったのおまえだろ!」  俺をひとりにしたのおまえだろ知らなかった孤独を教えたのもおまえだろおまえがいなかったら俺は父ちゃんがいなくても母ちゃんが死んでも納得してたのにおまえが俺をひとりにするから俺が寂しいんだろ! 「なのになに? またいなくなるって? いなくなってやる知らないって? ふざっけんなよてめえ!」  壁際にいる蒼介の体を押さえ、叩きつけ、鎖骨に指を当てた。うう、と息苦しく吐き出されるのも無視して、首の付け根に力を込める。男にしては華奢な首筋をほんの一瞬だけ指先でなぞって、揺れた蒼介にぞくりとした。これを傷つけたい、引っ掻いて噛んで埋めて、この喉を逸らせてやりたい。  こうして触れたのも、彼が律を呼んで白い液体を飛ばしたのも、彼を思い出して自慰をしたのも、あれから一度もなかった。あらぬ衝動に駆られるだろう自分が嫌だったからだ。おぞましいものを、覗き見るのが怖かった。  律、律、蒼介の口がゆっくり、呼吸だけで自分を呼ぶ。その唇も、噛み切ってやりたい。下半身がずくりと疼いて、一層手に力を込める。  蒼介は律の指に爪を立て、ぎりぎりと往復して引っ掻いてくる。容赦ない力の入れ具合に、律の指は引っ掻き傷に覆われていく。皮膚が破れ、赤にまみれる。痛みさえ麻痺して、痺れにさえ鈍感になる。こいつを今、今ここで殺してやりたい。俺をまたひとりにしようとするこの男をここで。 「先に、死ぬのは、いやだ」 「あ?」  喉に埋もれたような掠れた声に、一瞬指先の意識が途切れる。ふと緩んだ首の圧力の反射に、蒼介は何度も咳き込んだ。 「一緒に死ぬならいいけど、おれが先は嫌だ」 「なに?」 「律はおれが死んだのを確認してから、一人のうのうと生きるかもしれない。そんなのムカつくし、また女のとこに逃げるのをおれが止められないのは嫌だ」  だからもう、一緒にいてよ。  伸ばされた腕に、首が絡め取られる。締めるんじゃない、つうっと優しく、なぞり上げるようにして体ごと近寄ってきた。蒼介から漂う匂いに、嗚咽が漏れそうになった。喉に胃液が込み上げ、吐き気がする。背筋の下から上に、植物が急に生えるような急な駆け上がりに、ぞっとする。以前見た映像が、頭の中で流れた。生命力、生きるための原動、行動、この男が目の前にいると、怠惰なだけでは生きていけない。全部が丸裸で剥き出しで、声を上げなきゃやってられない。 「やってらんねえ」 「え?」  一緒になんて死ぬなんて虫唾が走る。この男と共に朽ちる気も毛頭ないし、楽しいことはひとつもない。理不尽だし、不条理で、非合理的だ。
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