6-4

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「おまえのこと忘れたいんだよ、俺」  蒼介は何度もまばたきをする。律は彼の体をゆっくり離して、身震いした。 「いなきゃいいって、死ねって本気で思った。いちいち思い出すし、触るとムカつくし、焦るし、思い通りにならない」  もういやだ、額を抑えて言うと、ふふ、だか、ひひ、と引き摺るような蒼介の声が、耳を通った。 「さっき律、おれに欲情したよな?」  律は顔を上げ、嘲笑してくる蒼介を見下ろす。 「あれだ、思い出しちゃった? 高一のときのこと」  ざまあみろ、ざまあみろ、はは!  腹を抱えて蒼介は笑い、ときどき律を見上げてくる。 「あーあ、ざまあみろ」 「てめえ……」 「ねえ律、いいこと教えてあげるよ」  彼を訝しむように、律は目を眇める。 「高校のときに律が送ってきたライン、あったじゃん。全部おれのせいにして、恨み言っていうか未練だよな? 後悔しただろ、あんなもん送ってさあ。最後なんてただの八つ当たりだし、はは。ガキもいいとこ」  下ろしていた腕にぶら下がる掌を、ぎゅうっと握り締める。爪の先が当たって、痛いくらいに。 「でも嬉しかった。あんな未練たらたらで、もうラブレターじゃん。スクショして、今もときどき眺めてんの」  ふふ、と彼は息を吐く。 「ああ、あのときおれがいなくて悔しかった。律の側にいたかった」  恍惚とした表情で蒼介は、ほうっと天井を仰ぐ。鼻にまた異臭が通過して、手の甲で塞いだ。それなのになぜだか爪先が数センチ、蒼介のほうに勝手に動いていく。嫌な匂いがする、嫌だ、近づきたくない、行きたくない、なのになんで。 「そうしたら律はきっと、おれでいっぱいになったよね? 他の誰でもない、女でもない、おれじゃなきゃダメなんだって刷り込んで植え付けて、思い知らせることができたのに」  なのにさあ、なのに律は! 律はいつも!  地団駄を踏むと、床が振動する。散らばった本が、小刻みに震える。だん、だん、だん! 徐々に強くなる足音に戸惑い、律は唾を飲み込んだ。胃液が混ざって、気持ち悪い。 「後悔とか未練って、愛だろ? なあ? 嫌いってさあ、もう愛じゃん。憎しみも愛憎って言うだろ? 律はね、おれから離れられないの。ていうか離さないし」  つーかまえーた。  するりと腕を伸ばされ、唇を寄せられ、過去が交錯する。思い出したのは、彼に触れたことじゃない。  蒼介の滑らかな肌を思い出して、直に受けた弾む呼吸と荒いだ吐息の熱を蘇らせ、自分で自分を慰めたこと。蒼介、と頭の中で呼んで射精したこと。  気持ち悪い、くそみたいな思い出。  蒼介の唇が触れるほんの手前、彼を思い切り突き飛ばした。見上げてくる瞳は泥まみれのきったない河だ。愛情か、あるいは憎悪か。そもそも最初からそんなものは存在していない、ただの執着か。理解するなんて浅ましい。どんな生物が生息し、その生命が尽き果てるのか、想像だにできない。見たことのない、あらゆる危険生物の中のひとつ。汚物の匂い。この男の匂い。 「律! 律律律! また逃げんのかよ! おれのいない楽な世界に逃げんのかよ! どうせおまえは後悔するくせに! せいせいしたって思いながら離れたのをおれのせいにして女に逃げ込むんだろ! おれからは離してやらない許さないからな絶対に!」  うるせえうるせえうるせえ。拳を握り、床に放置してある本を蹴っ飛ばした。壁を蹴った。ひどい騒音が響いた。 「どうせ律みたいな臆病者にはおれを抱けないだろ! 何もできなくて帰るんだろあのときみたいに!」  そうやって物に当たり散らして殴れもしない、おまえみたいに優しいだけの男は!  鼓膜の奥が、きんと鳴る。糾弾なのか咆哮なのか、もはや絶叫でしかないのに、つんざかれても耳を塞ぐこともできない。なんだか今ごろ急に、中学生の自分を思い出した。余所者の自分が、地元の人間に囲まれていた入学式。席が前後という単純なきっかけで話したのが蒼介だった。話した内容も特別実のあることでもなかったのに楽しくて、波長が合ったから一緒にいて、図書館も帰り道もコンビニも蒼介の部屋でも、それが唯一無二の時間で空間だったのを思い出した。コンクリートから生えていたオオバコとタンポポだったか、それがコンクリートの隙間から精一杯顔を覗かせて。  覗かせて覗かせて!  黄色やピンクやオレンジ、華やかで可愛らしいガーベラみたいな思い出の最後、俺はこの男を想像して自慰をして吐き出した。そうだよ欲情したんだようるせえな!  やってらんねえやってらんねえ、やってらんねえ! 「やってらんねえーー!」  未だに尻餅をついてフローリングに腰を下ろしている蒼介に、律は近寄った。彼は、自分から近寄ったときはあんなにも不遜な態度でいるのに、その体に律が跨るとぎょっとしている。目を逸らし、側にある本を一冊手に取った。 「殴んの? 好きにしろよ。俺も好きにするから」  片手で乱暴に頬を挟むように掴み、目も閉じずに口づける。蒼介の体が急に強張ったのがわかると、猛烈な加虐心と同時に、丁寧になぶって味わいたい両方の感情が膨れ上がった。彼は暴力行為においては積極的で容赦ないくせに、性的行為に関してはまったく臆病だった。舌を差し込んでも応えかたも辿々しく、肩に触れてくる手も震えていた。本で殴られる気配はどうやらなく、落としてしまったのか重たげに床が鳴る。  シャツの下から手をしのばせ、離した唇で蒼介の首筋を舐めて吸った。ボタンを順に外していくと、生っちょろい白い肌が剥き出しになる。見たことのない食べ物を収めるように、上から順に食んだ。蒼介は短く荒く呼吸をしたり、ときどき律と呼ぶだけで、それ以外はずっと唇を噛んでいた。遮るように、律は彼の唇に口づける。痕がついたらそこを舐めた。下半身に触れたとき、蒼介はいやだと言った。  いやだ、こわい。  途切れ途切れ、震える声と言葉を律に投げた。こわい、と彼が目を瞑れば、律は構わずそこを舐めた。上下に擦って出てくる体液に不快感を覚えることもなく、むしろ甘ったるい匂いが漂ってきて、律は夢中で蒼介のものを撫で上げる。あ、あ、と小さく鳴かれるのが心地良くて、ずっと聞いていたかった。異臭も何も感じなくなって、自らふんふんと嗅ぎにいって舐めて噛むなんて、そこに群がる虫みたいだと律は思う。  もう挿れたい、と思った。すぐにでもぶち込んでしまいたくて、蒼介のそこに指を入れる。いたい、いたい、こわい、彼は首を振った。ふと笑うと、およそ拍子抜けしたように蒼介はまばたきをする。 「なんかおかしい? 嫌になった?」  首を振った。 「いや違う。ちょっと、思い出しただけ」  蒼介の気が抜けた様子を見逃さず、躊躇なく指を入れて掻き回した。息を呑むように、彼は喉を逸らした。剥き出しの首を噛む。小さく鳴く蒼介は、喚き散らしていた狂人のような彼とは、随分と違った。  おれが女だったら良かった! 女だったら良かったのに! おれが女だったらめちゃくちゃにぶち込んでくれたって何してくれたっていいのに!  先日狂ったようにあんな台詞を吐き出しておいて、今のこの有様はなんだ。まるで小動物みたいで、律の手の中で泳ぐ些細な生き物じゃないか。律は初めて、この男を可愛いと思った。  突き刺して動かして、いたいと泣かれても承知しなかった。逃げようとしたら腰を掴んで打ちつける。肩を噛み、首を噛み、逃げ出すために這おうものなら彷徨う手を捕まえてそこも噛んだ。そのたび蒼介は、子どもみたいに泣いた。律、律、りつ、と呼んだ。ぎゅうっと抱き締めて、律も呼ぶ。  蒼介。  自慰などでも想像でも頭の中でもなく、声に出して言葉にして、彼の名前を呼んだ。 「初めてだったんだ、おれ」 「え?」  律は起きて水を飲んでいた。フローリングにあられもない姿で横たわる蒼介が、体を横にして声を出した。 「誰にも触られたことないし、触ったこともない。女のひとにも。律以外、誰もいらなかったから」  ふふ、よかった、とゆっくり息を吐き出しながら彼は笑った。ふわりとまた、妙な匂いが漂う。鼻を伝ったとき、ぐうっと息を数秒止め、最後は飲み込んだ。その匂いが異臭なのか、あるいは甘いのか、律には今、わからなかった。 「ベッド行って寝れば?」 「連れてってよ、立てないし」 「ああ、うん」  ごめん、と頭を掻いて、ワークトップにグラスを置いて、キッチンを出た。振り返るとキャビネットには、まだ予備のグラスがあることを知る。また蒼介に割られても大丈夫だと、はたして突飛なことを考えてしまい、思わず目を伏せた。  気づかれないように、律はひとりで笑った。
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