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7
一冊ずつ拾った本は作者のあいうえお順などではなく、律が乱雑に積み上げたのを上から順に、本棚に並べて行った。
「律、順番ちがう」
「じゃあおまえひとりでやれば?」
「手伝ってくれないの?」
もとより、なぜ自分が片付けを手伝わなければならないのだろう。言わせてもらえば本をすべてフローリングに放り投げたのは紛れもなく蒼介だし、律は一冊ずつ拾ってまとめたところまではしている。
「なんで俺が手伝わなきゃなんねえの?」
いちぬけた。と、何冊か持っていた本をフローリングに置くと、蒼介はくすくすと口の中で転がすような声を出した。
「律のせいじゃん、昨日帰って来なかった律が悪い」
だから片づけて。もっともらしき理由を言っているようだが、律からすればまったく理屈は通っていない。
「どこにいたの? また女?」
「違うよ、ミツルさんとこ。飲み過ぎてそのまま」
なぜだかばつが悪くなり頭を掻いて言うと、彼は一言、へえ、とだけ平坦に放った。そして、積んである本を本棚に納めていく。か行の作家は二段目らしい。一冊埋まった。
所在なくなり、本を一冊手に取った。読むなんて論外で、ただ触れるだけだ。当たると痛い紙の書籍は、こうして眺めていると武器にするなどもっての外で、決してひとを傷つけるためのものではなかった。表紙だけでも静謐で、何も変え難い重厚感があった。しかし、当たると本当に痛いのを、律はよく知っている。
律は今、蒼介の部屋に住み着いている。あの件からもう半年はたっていて、なぜだかここに住むことになってしまった。最初はおそらく、絆されたのだ。律がいないといやだ、体がまだつらい、あんなやりかたしておいて、痛かった、怖かった、でも律が欲しかったから受け入れたのに、等々。糾弾するようでもあったし、孤独を訴えるようでもあった。考えとく、と曖昧に流そうとするものなら、律はまた逃げる! すぐ逃げる! と拳を振り上げてくる。ものに頼らないと蒼介の攻撃は非力で、日々肉体労働をしている自分からしたらよほど弱々しい。振り上げられた手を掴んでしまうと目を逸らされたので、なんだかその恥じらった表情に絆された。
正直、律もそれなりに怪我を負った。ひどい内出血も擦り傷も、あとから確認すれば数え切れないほどあった。なのにどうしても、彼の匂いが甘く感じて、吸い寄せられてしまった。
俺ってまじでちょろい、やばい。
ミツルにも昨夜、いや昨夜だけでなく、蒼介のマンションに引っ越してからはときどき愚痴を溢していた。帰るのがいやだ、もうやだ、どっか行っちまいたい、とカウンターに突っ伏しながら子どもさながら喋り散らした。先日はとうとう、相手の名前も漏らしてしまう。けれどミツルは、さして驚く様子はなかった。
「あたしさあ、あんたが宇崎んとこ行ったあと、あの子に会ってんの。蒼介に。この店まで来てね、開店前の仕込みしてたときだった。あの子制服だったから、焦ったわぁ。でね、律はどこですか? って聞いてきたのよ。でもね、知らないって言った。あんたが伝えてないことをあたしが伝えるのはフェアじゃないって思ったし、彼の目が、忘れられないのよね。虚ろっていうか、渇望してるのにずぶ濡れっていうか、こりゃガキの手には負えないわって。そっちのほうが大きくて、だから居場所は言わなかったのよ、そのときは」
伏せていた顔を上げ、ミツルを見て目を見開いた。持っていたグラスが結露していたことにようやく気づき、掌が濡れている。口をつけると、もう薄まった焼酎の味が微かに舌に残った。
「前にここで二人で会ってたじゃない、待ち合わせって。あたしも何も言わなかったけど、あの子も何も言わなかったのよね。目だけは変わってなくて、ぬかるんでて、迂闊に手が出せなかったわ。まあ、あんたみたいな甘ちゃんのヒモ気質には手強い相手かもね」
まあ頑張って。からからと他人事のように笑うこのひとにとって、はたして他人事でしかない。というより、甘ちゃんのヒモ気質とはいかに。なんだよそれ、と多少気色ばむと、言葉の通りじゃない、と楽しそうだった。まあいいや、結局薄い焼酎を飲み干し、新しいものを頼んだ。
コースターの上に置かれた新しい焼酎は氷まで透明で、くるくると回してしまう。嗅ぎ慣れた香りが、ふわりと鼻を掠めた。
「匂いが……」
「何?」
俺は何を、酔っているからか。律は目を伏せた。グラスを回して、氷が鳴る音を聞く。
「蒼介から、変な匂いがするんだ。たぶん、俺しか知らない。おかしな匂い。えずきたくなるような悪臭なのに、吐きそうになるのに」
そう、異臭なのだ。嗅いだことがあるような、ないような、おそらく誰もが嫌悪する匂いであるはずなのに、律も逃げ惑うのに、ぐるぐる回って、けれど抗えなくたどり着いてしまう。
「自分でもなんで? って思うんだけど、知らないうちに勝手に近づいてる。なんか、本能? みたいな」
もうやだ、とカウンターに突っ伏した。その辺りまで記憶はあり、そのあとはおぼろげだ。気づいたら朝で、ミツルに散々どやされた。
ラフレシアって知ってる? ミツルが言ったそれを、律は本を手に持ってなぞりながら思い出し、蒼介を見下ろした。黙々と、本棚に本を収めていっている。
「貸して?」
「え、あ、うん」
渡した本は、太宰。フローリングには、三島の文字も見える。だざい、みしま、棒切れを拾って歩いた中学時代の帰り道、覚えたての言葉のように、何も知らない律はそれらを口から放り出していたことがあった。律が一度もページを開いたことのない本たちは、おそらく蒼介には何度も捲られていて、彼の脳には文字が散らばっているのだろう。
段々と、徐々に、部屋が元通りになっていく。いつも通りの、整然とした静寂な部屋に。
「なあ、蒼介」
「ん?」
彼は手を止めない。律も一冊手に取り渡すと、ちがうそれじゃない、とぴしゃりと跳ね除けられた。思わず舌打ちをする。神経質、綺麗好き、整理整頓大好き、くそやろう、そういうとこ本当にムカつく。律とはまったく違う。無神経、住めればいい、気が向いたら掃除、本を並べる作業は、吐きそうなほどぐらぐら揺れる。面倒だし、厄介だし、この男の隣に立つのは心底嫌だ。二日酔いか否か、おそらく否だ。
「おまえ、俺のなにがいいわけ?」
蝿だから? と一瞬浮かび、どきりとした。
「何それ、どうでもいいよ」
「は?」
彼を見下ろしていると、ようやく律が持っていた本が蒼介の手に渡る。
「本能を前に説明は蛇足」
「それ、誰の言葉?」
「おれ」
律は首を傾げた。彼の言う意味が、よく掴めない。
「計算もまた、生まれ持った性質」
「誰の言葉?」
「おれ」
「あっそ、わかんねえ」
わかんなくていいよ、そうですか。律が呆れて吐き出すと、最後はそれで互いに黙ってしまった。平坦な流れていく会話で、およそ会話として成立していたかも不明だった。片づけていく作業の中に、ぱこ、という本と本がぶつかる音が挟まれて、その小気味良さだけは嫌いじゃない。
この部屋がまた整然としたいつもの風景に戻るまで、あと数分だろう。異臭はもうしていなくて、蒼介の部屋の匂いだった。ときどき盗み見るように横顔を見ても、彼の目は濡れそぼっていない。泥水も、今は流れてはいなかった。
最後の一冊が本棚に収められたとき、蒼介は顔を上げる。
「律、明日はちゃんと帰ってきてね」
「え?」
「まだグラスが、余ってるうちに」
ラフレシアが開花するまでに、およそ二年から三年かかるらしい。そして、花が咲けば約三日で枯れてしまうのだそうだ。その短い寿命の間に奴は、蠅を呼び寄せる。腐臭を放って、吸い寄せる。受粉するために。なんという生命力。はたして本能か計算か、あるいはそれ以外か。
ラフレシアと蝿しか知らない関係性。互いしか介入できない場所。世界なんて大仰なものじゃない、ちっぽけな、些細な、二つの生命体が行う互いしか知らない輪廻が巡る。仮に悪臭から逃げ出したとしても、本能で寄りつくのもまた蠅だ。計算も打算も、そのどちらも結局、花が咲いてしまえば結論など知り得ない。ラフレシアと蝿しか、答えは知らない。
しょせんラフレシアにたかる蠅か。嘲笑するように、小さく笑った。
「律、律、ここにいてね」
蒼介が、律の頬に触れる。見上げる瞳は、どしゃ降りを通り過ぎて薄汚れた汚水だ。喉に胃液が込み上げる。おえ、とえずきたくなるほど妙な匂いがする。花が咲いている。
ポケットに入れていたスマホが鳴った。触れてくる彼の手を放置し、取り出した。友人の周防だったが、無視してまたポケットに戻す。
「誰?」
「ああ、周防。どうせ飲みの誘いだろうし、いいよ」
誰にも介入されない、二人だけの。理解し難い思考に、律はまた嗚咽が漏れそうになる。なのに今はもう、他の誰の声も聞きたくなかった。
スマホの着信音が、はたと途切れる。慌てふためき、まるで異臭から逃げ出したみたいに。
了
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