1-2

1/1

123人が本棚に入れています
本棚に追加
/17ページ

1-2

 両腕を通し、指先に残った冷えを紛らわせるためにポケットに手を突っ込む。どちらにせよ、綿がかさかさしていて、冷たい感触は変わらない。 「ラフレシアって知ってる?」 「らふれしあ?」 「そう、世界最大の花。ラフレシア。どっか熱帯の森の奥に咲くっていう、毒々しい赤い色した花よ。人間も食べられちゃいそうなくらい大きいの」  ミツルの言葉の要点が掴めなかった。首を傾げると彼女は、ふふ、と笑った。モッズコートの中におざなりに突っ込んでいた鍵の束に触れる。ひとつだけ未だにキーリングに繋げていない鍵が、妙にひやりとしていた。 「それが、なに?」 「あんたの話聞いてたら思い出しちゃった。花と言ってもめちゃくちゃひどい匂いがしてね、誰も近づかないのかと思えば、ある種の蝿は寄っていくらしいの。ラフレシアとその蝿は、誰にも介入されない二人だけの世界を作ってるのね」 「だからなんなんだよ、なんで俺の話で思い出すの」 「別にー? なんとなーく浮かんだだけよ」  首を傾げると、手を振られる。律もまた、じゃあまた、と言って店を出た。  外は肌寒い。びゅっと風が通り過ぎると、肩を竦めてしまうほどだった。一瞬目を眇め、ふっと息を吐いて歩き始める。脇道から大通りに出ると街はまだ明るく、街灯も店の灯りも散らばっていた。手を伸ばしたら、きらきらした星がこの掌に掴めてしまうんじゃないか、そんなメルヘンなことを考えて苦笑する。  今日、あいつはどうしているんだろう、何をしているんだろう、何も変化はないだろうか、いやそれはないな、何しろ一日帰宅していない。スマホの着信が鳴らないように着信拒否にしていて、ラインも一時的にブロックしている。電車に乗り、シートに腰掛けてようやくそれを解除した。とりあえず、まだしばらくは静かだろう。あと三十分後にはわからないが、おそらくそのころには帰宅している。  不意に、ミツルの言葉を思い出した。なんだっけ? らふ? らふれ、ラフレシア、そうラフレシアだ。確かなんだっけ、世界一大きな花、だっけ? 二駅ほど乗る電車の暇潰しに、スマホでラフレシアを検索した。出てきた画像はなんともグロテスクだ。およそ花とは言い難い。  世界最大の花。その見た目の醜悪さから最初は人喰い花だと想像されていたのだという。食虫植物かと思いきや、そうでもない。ブドウ科の植物の根に寄生する寄生植物で、本体は寄主組織内に食い込んだごく微細な糸状の細胞列からなり、ここから直接花を出すらしい。茎、根、葉はなく、クリーム状になった花粉を、花の奥に入り込んだ蠅の背面に付着させる。らしい。  おえ、と口元を隠してえずく真似をした。調べている途中で胸糞が悪くなる。その上こいつは、蝿に花粉を運ばせるために異臭を放っているそうだ。異臭、の文字を読むと、なおさら不快感しか生まれなくなる。調べれば調べるほどげんなりして、律はスマホのホームボタンを押した。  ああそう、そういう意味ね。目を伏せ、嘲笑するように息を吐いた。ミツルに詰め寄ってやりたくなるのに、最寄駅から帰宅するまでの道のりの間で、無言で舌打ちをするくらいしか対抗する術が浮かばなかった。悪臭、というweb上の文字が、脳裏から離れない。  駅歩の少ない立地のいいマンションに、律は住んでいる。ここに住み始めて、もう半年近いのではないだろうか。行き交うひとは多い。時間もまだ早いからだ。午後九時三十分。  今日は無事か、明日はどうだ、なぜこんなことを考えるのにここに帰って来るのだろう。別に俺はヒモじゃない。日雇いの土木水道作業員とはいえ、収入もある。お呼びが掛かることは少なくない、金銭面の不安はない。それなら別に。別にあそこに住まなくたっていいんじゃないか。  なのに結局、足はマンションに向かった。二階の202号室。ひとつだけキーリングに収まらない鍵で玄関を開け、ゆっくりと引く。きいーっと甲高い音が、律の耳先を裂いた。不快音でもなく、ただ玄関の開く音。それなのに。一歩足を踏み入れると、真っ暗闇の廊下が広がった。何度かまばたきをして目を慣らし、とはいえすぐには慣れないから、玄関脇のスイッチを入れる。昼白色の爽やかな光が、廊下全体を簡単に包んでしまう。ただいまー、ぼそりと呟いた律の声は不自然なほど低く、鮮やかな色合いにはまるでそぐわなかった。  返答はないが、玄関に靴はある。あいつはいる。ゆっくりと、足裏を擦るように、ひたひたと歩いた。  悪臭、異臭、そこに入り込む蠅。  律は目を眇めた。いや、そんな臭い今はしない。蠅だって飛んでいない。腐臭だってしない、現状では無臭だ。何しろ家主は、綺麗好きの上に神経質だからだ。手洗いうがいは欠かさないし、律が帰宅しても必ず言う。  律、手洗った? うがいもしなよ?  いとけない笑みを、律に向かって降らせる。口元を押さえた。漏れてしまいそうな嗚咽を、我慢する。  リビングのドアを開けた。半歩足をずらしてすぐ、何かがつっかえた。さっと引く。どきりとした。足の裏に、痛みはなかった。今日は違う、ガラスじゃない。呼吸を整え、電気をつける。ぱっと明るくなった室内のフローリングに、驚愕はしなかった。今日は本だった。彼が読んでいると思しき本が、部屋中に散らばっていた。相変わらず、他は綺麗にまとめてある。キッチンも、キャビネットも、テーブルも、雑然としているのはリビングのフローリングだけだ。順に本を拾っていき、最後の一冊を拾い上げたところで寝室のドアが開く。  暗い影の中に、ひとりの男が立っている。頭の中にゆらりと浮かぶのは、スマホで検索して出てきたグロテスクな花。 「……ただいま、蒼介」 「おかえり、律」  にこりと微笑む表情に、花を咲かせたラフレシアの画像が浮かんで、気味が悪かった。  雨が降りそうだ、と思った。蒼介を通り過ぎた窓の向こうは暗闇で、雨の気配は感じない。もちろん帰宅途中も雨は降っていなかった。けれど蒼介の瞳はいつだって、きったない雨水がしたたっているように濡れそぼっている。
/17ページ

最初のコメントを投稿しよう!

123人が本棚に入れています
本棚に追加