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 さ、え、き、り、つ。せ、り、ざ、わ、そ、う、す、け。  蒼介が初めて律を呼んだ声は、何かを確かめて、舌の先を丁寧に使ってなぞるように滑らかだった。  律が引っ越した先の校区にある中学校は、さまざまな小学校の集合体から成り立つ学校だった。律のように他県から入学するというのは珍しく、はたしてこのクラスも同様だ。すでにある程度、集団のかたまりが出来上がっている。  入学した翌日、ホームルームで自己紹介をする時間があった。席順も最初の並びはあいうえお順で、相田、井上、梅林、あ、い、う、と続いた。そのうち段々と、かきくけこ辺りから飛び飛びになる。川谷、窪田、そのあと、か行の苗字はなかった。ときどき茶化す場面もあったり、雑談も混じる。小学校からの繋がりが濃いからか、緊張感というより、高揚感を強く感じた。他県から来た生徒はやはり律だけだったようで、初日からまったく馴染めないでいる。  椅子に深く凭れ、学ランのポケットに手を突っ込んだ。母親が買った大きめの学ランは、肩幅がひどく余って不恰好だ。すぐ大きくなっちゃうからね、と触れた手の感触が届かないほどには、大きい。 「佐伯律です。T市から引っ越して、こっちの中学に来ました。よろしくお願いします」  左手だけをポケットに突っ込んだまま、それだけ言って着席をした。前の席に座る女子が、よろしくー、と振り返る。よろしく、と返して笑うと、一つ後ろの席が動いた。 「芹澤蒼介です。よろしくお願いします」  おざなりで端的な物言いに、律は振り返った。ちょうど着席したばかりで、目が合う。薄茶かかった髪の毛が、窓の光に照らされてもう少し明るく見えた。彼は何度かまばたきをして、なに? と律に疑問を投げかける。淡々と喋る声とは裏腹に、特別愛想がなくは見えなくて、首を振る。よろしくな、と多少乗り出して言うと、彼もまた表情を緩めた。直感的に感じた予感が、脳にやってくる。こいつと仲良くなるんだろう、とだけ思った。  佐伯の「さ」から芹澤の「せ」まで一気に飛んだな。  律が蒼介に声を掛けた最初の言葉がそれで、彼は二人の名前を、スキップで道を跳ねるみたいに言う。  さ、え、き、り、つ。せ、り、ざ、わ、そ、う、す、け。律って名前、呼びやすいね。  朝のホームルームが終わって彼と、そんな些細な話をした。それから互いに、名前で呼ぶようになった。律が感じた直感は外れることはなく、蒼介と過ごすことが多くなる。もちろん他に友人もできたのだが、蒼介とは特にウマが合った。金銭的なことを考えて部活動には入らなかった律と、部活に興味がないという理由で帰宅部を選んだ蒼介は、放課後も多くの時間を過ごした。部活に興味がないというわりに蒼介は、運動もよくできたし勉強も得意で、さらには教えることまでうまかった。蒼介ー、わかんねえ、と聞くと、丁寧な円を順に描くように教えてくれた。わかった? と最後は律に聞く。頷くと、彼は頬を緩めた。  図書室で教わることが多く、日差しが強いときは大きな窓から採光が入り込む。蒼介が教科書を見ながら指でなぞって問題を読むたび、彼の薄茶の髪の毛が微かに揺れた。光が反射し、細かい雫のようなものが、彼の髪に転々と散らばった。  水滴が散りばめられたように見え、はたとそこに手を伸ばして掴んでしまう。そのままちょっと引っ張ると、彼は声にならない言葉を発し、図書室の椅子を引く。ぎぎっ! 静寂しかない室内に、際立って不快音がつんざいた。視線がこちらに集中する。律は愛想笑いをしてぺこりと会釈して、蒼介に顔を近づけた。 「うるせえな、注目されんじゃん」 「り、律が急に、髪引っ張るからだろ?」  びっくりした、おぼろげな声と逸らされた視線に、律は首を傾げる。 「そんな驚くこと?」 「だよ」 「そっか、ごめん」 「……いいけど」 「おまえもそんなふうに動揺すんだな、笑えるー」  蒼介はじっと律を見据え、きゅっと口を結んだ。すぐに、ぱくっと開けたのだけれど、しゃぼん玉が弾けたような息を彼は吐いた。 「するよ」 「え?」 「動揺くらい、おれだってする」  はい続きやるよ、と続けた蒼介はどこかばつが悪そうでもあったし、照れ臭そうでも不機嫌でもあった。なんで機嫌悪いの? と聞けど、悪くない、と返されるだけだった。  蒼介とは大体、一時間ほど一緒に図書室にいる。宿題をして、律がわからない、と聞いた箇所は丁寧に教えてくれる。当然彼が先に宿題を終わらせるので、律の宿題が終わるまで、借りる本を選ぶために本棚を見て回って待っている。今日は三冊ほど借りたらしい。文庫本をリュックサックの中に入れていた。 「なに借りた?」 「太宰と三島」 「だ、だざいと、みしま?」 「はは、律は宿題終わらせな? 終わったらコンビニ寄って帰ろ」  うん、と返事をして、律はシャーペンを持ち直した。終わったのは、その十五分後だった。  コンビニまでの道すがら、律は棒切れを一本拾う。だ、ざ、い、み、し、ま、と切るように呟きながら振ると、隣にいる蒼介は声を出して笑った。読書って楽しい? 聞くと彼は、頷いた。どういうとこが? と尋ねれば今度は唇をなぞり、少し考えているようだった。 「紙の感触も好きだし、自分以外の人生を精一杯の文字にして読めるところも好き。嘘なのに、本当のことみたいに書いてあるだろ? それが好き」 「へえー、わかんねえ」 「そう?」 「それって例えば、俺の人生を俺以外のひとが読むってことだろ? 読まれてることも俺は知らないワケじゃん。こえー」  持っていた棒切れを、歩道の脇に置いた。コンクリートの隙間から、雑草が生えている。オオバコ、たんぽぽ、その他色々。律が知らない草花が、必死に顔を覗かせている。  蒼介は、律よりも身長が低かった。ほんの数センチだ。けれど、目線が下がることに変わりはなく、見上げてくる彼の表情は緩やかだ。 「律の考える世界は、おれと違うから面白いな」 「うん、俺もそう思う」  率直に感じた予感はこれだった。自分とは違う物語を生きてきたこと、話す口調、知らない言葉、喋るリズムも歩調だって、まったく異なった世界の中で、異なった道を歩いてきたに違いない。分け隔てた場所で、同じ時間を長く過ごす予感が今からする。  空を見上げたとき日差しがまだあって、飽きもせず蒼介の髪を照らしていた。溢れるような光が、ぽつりぽつりと水滴みたいに滲んでいる。 「蒼介は、髪が俺より茶色いの。知ってる?」  彼は首を振った。確認するように触れ、見えないだろうに視線を上げて、前髪の毛先だけでも見ようとしている。 「図書室で、俺が知らねえひとの本借りたり」 「はは、それは知ってる」 「髪の毛もきらきらしてんの、だから掴んじゃった。ごめんね」  だざい、みしま、と平仮名で文字が浮かんだ。知らないひとの知らない人生が綴ってある物語。じゃりじゃり擦れる靴底から鳴る雑音も、歩道も、隣に蒼介がいることも、今日喋った内容も、宿題も、今は律の物語であって、そこに彼が交わっていることが、なんだかとても不思議だった。 「律……」 「なにー?」  転がっている小さな石を蹴っ飛ばした。二、三メートルかあるいはまだ先か、律がわからないどこかへ、行ってしまった。 「あんま、そういうの、言わないで」 「え? あ、うん。わかった」  他意なく発した律の言葉に、ぼそぼそ連なる蒼介の声はか細くて、ほんの少しだけ震えていた。コンビニでなに買う? 俺アイスにしよ、と構わず話を続け、彼を見る。ほてったように頬が赤く見えたのは、太陽のせいかもしれない。
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