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 エアコンが壊れた。  中学三年の夏、住んでいる自宅アパートのエアコンが壊れてしまった。修理と付け替えは大家がしてくれるのだが、少し時間が掛かるらしい。夜はまだ扇風機でしのげるかもしれないけれど、厄介なのは昼間だった。今年の夏は蒸し暑さがひどく、ボロアパートに断熱処理などもちろんなくて、焼けた壁から伝わる熱も湿度も、これをやり過ごす我慢にも限界がある。そこまでの忍耐力は、律にはない。ついでに、やかましくずっと鳴いている蝉が、余計に暑さを助長させる。  受験勉強をするとはいえ、日中ずっと図書館に逃げ込むのは嫌だ。 「うちに逃げる?」  コンビニの縁石に座り、溶け掛けたアイスを舐めたときだった。エアコンが壊れた話をぐだぐだ続けていた律は、顔を上げる。濁点をたくさんつけたような蝉の鳴き声が、耳の位置を少し変えただけでもやかましく通り過ぎる。蒼介の有り難い申し出を断る選択肢は当然なく、すぐにアパートに帰って一応勉強道具一式をリュックサックに詰めて自宅を出た。アパートの古びた鉄階段の下で、蒼介が手を振って待っている。  かんかん、と鉄が鳴る。小人が跳ねて踊っているように、軽快だった。  蒼介の家には、何度も伺ったことがある。律の母が夜もミツルのバーで仕事をしていることもあってか、蒼介はよく自宅に招いてくれた。晩メシ食ってけよ、としはしば誘ってもくれる。本当は、母もミツルも、律に夕食は準備してくれていた。どちらかが、仕事の合間に夕食は持ってきてくれる。ただ律は、気にすんなよ大丈夫、とやんわりと拒否していた。家事は苦手ではないから自分で作れるというのもあるし、彼女たちの負担になっているのなら、と思慮してしまう自分自身が嫌だった。何より律は、蒼介が誘ってくれることが嬉しかったのだ。  彼の家は、おそらく一般家庭よりも大きな家だ。とはいえ、資産家、と呼ばれるほどでもない気がする。初めて律が蒼介の家を見上げたとき、でけえなー、と思わず漏らしてしまう程度の。もっとも律はずっとアパート暮らしだったから、当然かもしれない。彼は苦笑して、小さくはないけど、と言う。遠慮させてしまったのを知りながら、次に続ける言葉が浮かばなかった。特別、嫉妬や妬みがあったわけではないのに。なんとなく、ばつが悪くなる。ただ、でけえなー、というそれだけだったのだ。  蒼介は、私立の高校へ行ってしまう、らしい。そう聞いたのも、でけえなー、と同じ日だった。蒼介はその日、ずっと水分の多い目をしていた。涙、という類ではなく、哀情、とか、悲嘆、とか、憂き目を示していて、律は何度もまばたきをした。でけえなーってそんなに気にした? 無神経でごめん、心のうちではもしゃもしゃ渦巻く灰色の言葉が下の方に蹲っているのに、出てこない。  おれ、私立のY高校行くんだ。  律とは無縁の進学校だ。離れてしまう、と否応なく突き付けられ、うら寂しさが残るのは当然だった。あと半年で、蒼介と通っていた中学校を卒業してしまう。ただ的外れにも律はどこか違う思考の場所で、蒼介の目はすごく水っぽい、などと考えていた。  蒼介の部屋は、清々しいという言葉が似合っている。エアコンの風もすっきり通り越してしまうほど、整理整頓された部屋だった。本が好きだという彼の部屋には一面の本棚があり、作家の名前がきちんとあいうえお順に並んでいる。太宰と三島の名前を律は、この部屋で知った。相変わらずきれいな部屋だな、と呟くと、律の部屋がごちゃごちゃしすぎ、などと悪態を吐いた。彼が出してくれるのは、いつもアイスティーだ。甘いものがあまり得意ではない律に、氷いっぱいの濃い目の紅茶を入れてくれる。  よいしょ、と言って彼はテーブルの前に座った。 「今日はどの辺やる?」 「どうしよ、めんどくなってきた」  涼しい部屋のフローリングにころんと寝転がると、なおさら面倒になる。肌触りのいい木の床が心地良くて、眠くなってしまう。 「はは、わかる」  視線を動かすと、彼もまた寝転がってしまった。 「律……」 「んー?」  大の字のまま、顔だけを蒼介の方に向けた。一メートル以上距離があり、狭くも広くもないこの部屋の中にすっぽり収まっているのが、どこかから切り取られた世界にいるような。おかしな錯覚でくらりと揺れた。少なくとも外とは、気温が違う。湿度も違う。蒼介の目は今日も、水浸しだ。 「律、あのさ、えー、っと、あの」  珍しくまごついた様子で思わず律は、 「は? なに」  と、訝しむ。 「あの、さあ。律はなんで、T市からこっちに来たの? いまさらだけど」  ああ、と思いついたように呟いて起き上がった。T市はいわゆる都会から多少外れた市だ。そこからわざわざ、また県を跨いでこの土地に来たのが、蒼介からしたら違和感を拭えなかったでのかもしれない。彼はこの件に踏み込むことはしなかったし、律も敢えて自分からは切り出さなかった。それは。 「父ちゃんが離婚届置いていきなりいなくなっちゃってさ、そんで母ちゃんが、友達のとこ行こうって。ほら、ミツルさん。睫毛ばさばさの、蒼介も会ったろ? あのひとと母ちゃん昔から知り合いだったんだって」  蒼介とミツルは、何度か会っている。アパートに夕食を持って来てくれたときに遭遇したとか、買い出し中のミツルにたまたま会ったとか、そんな些細な繋がりだ。ただあの顔と化粧と格好だから目立つし、最初は蒼介も口をぱくぱくと泳がせていた。生憎ミツルのほうは、やだ律の友達かわいーじゃん! とはしゃいでしまった。さらに蒼介を怯えさせたことを本人は知らないのだけれど、その後すぐ、蒼介も慣れてしまった。あるいは、ミツルの懐の深さか。  今はそれ以上に、律の告白自体に蒼介は、表情を歪ませている。口を噤んでしまった彼の苦い唇、それを見るほうが、律は嫌だった。こうなるのが苦痛で、自分からこの話はしないことにしていた。頭を掻いていると、横目から蒼介の憂いた瞳がちらりと覗いてしまう。 「あー、だから嫌だったの、この話すんの。頼むから、俺の物語勝手に作んなよ? ぜんっぜん大変じゃなかったし」 「え?」 「俺さあ、父ちゃん好きなんだ。今もし会ったとしても、ようって言っちゃう、たぶん。母ちゃんも同じで、なんだ帰って来たの、とか言うかも。うん。すげえ可愛がってくれたし、すげえ遊んだ。一緒に料理作ったり、いろんな場所連れてってくれて。でもだらしなくて、たぶん働いてなかったんだろうな。ヒモ? っつーの? 母ちゃんも呆れてたけど笑ってたし、まあ急にいなくなったのはびっくりしたけど、とどまってるひとじゃないっつーか」  流れちゃうひとだから、母は確かにそう言って、はたして律も納得したのだ。突風みたいな男だったので、そうだよな、なんて理解してしまったのだ。だから彼女が、わたし達も流れちゃおうか、と閃くみたいに寂しげな横顔を見せたときに、迷いはなかった。うん、そうだね、そう言った。 「母ちゃんは今もミツルさんと楽しそうに店やってるし、自分のこと辛いとかかわいそうとか、考えたことないっつーか」 「そっか」 「そう」  彼は、緩やかに目を細めた。水分が目減りして、少しだけ明るくなる。 「ありがとう」 「は? なにが?」 「話してくれて」  律は、なんでもないように手を振って見せる。喋りすぎて喉が渇いた。アイスティーを飲むと、氷が溶けたのか苦味が和らいでいる。背中に当たるエアコンの風がすーすーしているのと相まって、寒いくらい涼しい。真っ白のTシャツから伸びた腕が、やけに心許なく感じる。 「律のそういう、広いとこ」 「ひろい?」 「なんか、だだっ広くない? いいよな、羨ましい」  羨ましい、もう一度、降り頻るような声を喉から出して告げる。小雨みたいにしとしとした静かなものなのに、どしゃ降りのような圧力を含んでも聞こえた。  ちくり、とする。心臓の辺り、身近な場所に、とっさに小さな図太い痛みが走り、フローリングに置いていた手を握り締める。ああそうだ、俺は。  父が消えたときは、理解した。母が流れようと決意したときは、納得した。今のこの、ぽつんとひとりきりで転がっているような覚束なさは。 「蒼介、俺さみしい」 「え?」 「おまえがいないのは、さみしい」  淡い水色のか細い植物が、蒼介の瞳の中で潤んで見えた。ゆらゆら揺らいでいるように感じたからか、細い植物に映ったのかもしれない。彼は律から目を逸らし、シロップが入っているだろうアイスティーに手を伸ばす。ごくり、と鳴るのと、氷が騒ぐのが同時になる。 「じゃあ律が、私立受験したら?」 「無理だろ! おまえが志望校変えろ!」 「はは、やだ」  笑っていたら、喉が渇いた。アイスティーはもう半分くらいに減っていて、全部飲み干してしまう。  ちくちくちくちく、まだ転々と上半身が痛い。      
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