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 ぴーぴー吹いた口笛は、ひとけの少ない駅構内に消えた。  寂れたベンチに座り、足を伸ばして天井を仰ぐ。ここもまた古びていて、錆がひどかった。電車はまだか、線路に視線を戻すと、目の前は木々たちが生い茂っている。春だなあ、ぼんやり緑を見つめていたところに、電車がきた。この時間は学生が多くて、ドアから出てくるのは様々な制服を着た男女の群れだった。  ぞろぞろと流れてくる列の中に、律はまだ見慣れない制服を見つける。中学生のころ学ランだった蒼介は、高校生になってブレザーに変わった。水色のネクタイに、濃紺のブレザー、グレーのズボン。律は中学時代と変わらず、高校生になっても学ランだった。  右手を上げると、蒼介も同じように手を上げた。よう、と声を掛けると、彼は微笑んだ。律、と言って近づいてくる。 「まだ見慣れねえなあ、おまえの制服」 「律は変わってないもんね」  別々の高校に通う二人が待ち合わせをする駅は、いつもここだった。少しだけ高い場所に位置しているこの駅が中間地点で、ここから上りに乗り換えてどちらかの家に行くか、そのまま遊ぶか。大体、近辺のコンビニで買い物を済ませ、だらだら過ごすことが多い。ただ今日は、もうすぐ律の高校の最初の中間試験が来週に控えているのもあって、勉強を教えてもらうことになっている。律はすでに買い物を済ませていて、蒼介にビニール袋を見せた。スーパーカップ買っといてくれた? 溶けちまうじゃん、そうだね、なんて適当な会話がちょうど良くて、何気なく買ってきたもの思い返す。うましおポテトとか厚切りポテトとか、ポテトばっかだな、と半分苦笑し、あとなんだっけ、ああそうだ蒼介は甘いものが好きだから抹茶クランチとチョコビス買ったんだった。全部声に出していたらしく、律は独り言も全部声に出てる、と蒼介に笑われた。  勉強を教えてもらうのは、もっぱら蒼介の部屋だ。以前は図書館や、律の部屋もあった。が、蒼介の部屋の居心地の良さを律が気に入っていて、自然とそうなってしまった。律は、蒼介の淹れてくれるアイスティーが好きだった。彼は相変わらず、濃い目のアイスティーを淹れてくれる。今日もそれは変わらず、からんと涼しげな音を鳴らしながら、アイスティーをテーブルに置いた。  ひと段落ついたところで、薄れてしまったアイスティーを飲み干した。もう、氷も溶けてしまって、中身はすっからかんだ。買ってきた菓子をつまみながら、互いに別々になってしまった高校生活の話をする。新しい友人のこと、相変わらず、互いに部活動には所属していないこと、理由も同じであること。そして律は。 「ああそうだ、俺、彼女できたんだよね」  世間話の続きのはずだった。そう、何の気ない話の続き。その程度のものだと思っていた。なのになぜだか、律の指の動きが散漫になる。つまもうとしていたポテトチップスの、狙っていた大きなサイズのものが、うまく掴めなかった。取ったのは、カスほどの小さなものだった。 「おまえは、そういう話、ねえの?」  もしあったらどうしよう、ぽつんと浮かび上がったのがそれで、自分自身にぎょっとする。なんで? 疑問を投げかける相手は、はたして蒼介ではない。ずっと目を伏せていたのを、ようやくあげる。 「蒼介?」  どしゃ降りだ、と思った。蒼介の瞳は、大雨に打たれたみたいに水浸しだった。ぶくぶくぶくぶく、沈んでいきそう。 「へえ、そうなんだ。良かったね」 「蒼介?」 「おれは、そういうの、ない」 「おい、蒼介」  律を見つめる彼の目に、体を一瞬強張らせる。フローリングから、ずるりと体をずらした。大幅に動かしたつもりだったのに、ほんの数センチしか移動していなかった。床につけていた掌だけが、爽やかな木の温もりからほどけている。  以前律が見つけた、蒼介の瞳の中に住むか細い植物。確かに淡い水色で、微かに黄緑が混ざって瑞々しかった。それが今はどうだ、真っ赤とも臙脂とも、あるいは灰色にも捉えられる色に、変わってしまった。 「今日は帰って。具合悪い」 「え、大丈夫か?」 「いいから、帰れよ」  ばいばい、という言葉が、声とも表情ともそぐわない。蒼介は律をねめつけ、無理矢理フローリングから立たせ、部屋から追い出した。ばいばい、もう一度低く聞こえ、律が振り返ったときにはもう、彼は自分の部屋にこもって出てこなかった。  翌日から中間試験が終わるまで、律は蒼介に連絡をしなかった。蒼介も同じだった。一週間以上、顔を合わせるのも声を聞かないのも、文字だけの連絡でさえ、取らないのは初めてだった。けれどそれが、今後は当然になるのかもしれない。二人はもう、同じ学校にはいない。律には彼女もできた。蒼介だっていつ、恋人ができるかわからない。彼の瞳から突如生まれた得体の知れない植物は、単純に置いてきぼりを食らった焦燥、そうじゃないのか。自分より先に行こうとしている親友への妬み、そういう些細なものだ、きっと。  ひとりで結論を出して、ひとりで納得し、試験が終わって学校を出てすぐ、蒼介にラインを送る。がっこー終わった? 連絡ちょーだい。既読はつくものの、返答はなかった。彼の授業が終わったころを見計らって電話を掛けるも、おそらく無視だ。苛立ち、返答がない蒼介に焦れて、彼の家に直接向かった。門扉を抜け、玄関のチャイムを鳴らすとしばらくして、蒼介がのそりと顔を見せる。 「おまえ返信しろよ、電話出ろよ」 「まだ体調悪かった」 「噓つけ」  背を向けてしまう蒼介を追いかけ、律はスニーカーを脱いだ。歩いて行ってしまう蒼介は、上がってて、と言う。お茶持ってく、と付け加えた。律は蒼介の部屋に入り、いつものテーブルの前に座り、彼を待った。どうにも気がせって手持ち無沙汰で、辺りを見回してしまう。昔から使っている勉強机は変わらず、この暇を潰してしまいたくて何気なく覗いた。一冊のノートが、不用心に投げてある。おそらく、自習用のものだろう。  今あいつどの辺習ってんだろう、とまた何の気なしにめくると、やはりそうだった。蒼介の、xとyはいつも流れるような筆記体だ。数字も右上がり。ぺらぺらと小さな紙の音が、こぼれていく。途中はまだ真っ白で、何も書かれていない。開き跡があったのか、そこまで一気にページが飛ぶ。  律は凝視し、慌ててノートを閉じた。まばたきもできずに硬直したのはおそらく数秒だろう。にもかかわらず、時間の感覚が消えた。数秒か数分か、あるいは数時間だったかもしれない、そんな突飛なことを考えるほど。最後のページに書いてあった言葉に、手を止め、息を止め、吐くのも忘れて硬直し、何度か目で追って、ノートを閉じた。人間の体はわかりやすいもので、心臓は簡単に早く脈を打つし、手汗もかく。ノートをもとの位置に戻すと、ちょうど蒼介が部屋を開けた。ノートを見たことはバレてはいないようだ。心臓が、まだ鳴っている。  どくん、どくん、掌を握ったり開いたり、落ち着け、落ち着け、大丈夫、と何に対して案じているのか最後にはわからなくなる。それさえもすべて掻き消すように、置かれたアイスティーに手をつけた。いつもの蒼介が入れてくれるアイスティーだった。苦味がちょうどいい、いつもの味であるはずなのに、それを飲むと今日は、一層苦味を感じてしまう。なんか入ってる? まさかな、はは。なんて突拍子のないにもほどがあることを考えてしまう。 「律」 「ん?」  どくどく、といまだに治まらない鼓動の中で、蒼介を見る。彼はまた、濡れてかじかむような目で律を見た。雨がしたたって濡れそぼった視線の流れに、なぜだか今日は、ぞっとする。 「ノート、見たよな?」  のーと、みたよな。のっぺりした口調が、やけに喉に絡んだ。もう一度アイスティーに手を伸ばす。ただ残念ながら、グラスには氷しか残っていない。どうしよう、喉が渇く。 「おれ、律が」  体は強張ったままだった。フローリングに置いた掌が張り付いてしまったみたいに動かなかった。手首の付け根がきしんだ。一ミリ動かそうとしただけでもずきりと痛みがはしる。 「律が、好きなんだ」 「え?」 「ずっと、好きだった」  口を開けると、渇いていたのか皮膚がつっぱった。え、ともう一度問うと彼は、目を伏せてしまう。その仕草に、拍子抜けした。 「ごめん、帰って」 「は? また?」 「律の顔、今は見たくないから」  また追い出されるようにして、律は蒼介の部屋から出た。蒼介、と呼んで振り返っても、彼は先日と同じように部屋の中だ。ゆっくり階段を下りるものの、追ってくる気配はない。玄関ドアを開け、外に出て蒼介の部屋と思しき場所を見上げても、気配すら窺えない。歩き始め、スニーカーをコンクリートに擦らせても、背後から足音は聞こえなかった。そうすけ、口の中で呟いてみて、あまりにも危なっかしくて振り返れなかった。  好きなんだ、と、ノートの文字が交錯する。のーと、みたよな。ひどく混乱していた。彼のノートには、殴りつけるように目一杯の感情が溢れた文字が連なっていて、その上に乱暴に並んだ斜線で消すように書かれてあった。  ――憎い憎い憎い! あいつが憎い憎ったらしい! 死ね死ね死んじまえ!!!
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