3-2

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 衣替えが過ぎてしまった。着ていた学ランは押し入れの中に収納され、真新しい開襟シャツに腕を通した。するっと伸びてしまった二の腕が空気にさらされたとき、蒼介と会うことも連絡もしていないことも、互いにそうだということも、時間をもって知った。  生温い空気が体に直接触れる季節に変わるまで、一日一日が淡々と過ぎていた。  佐伯、と声をかけられて振り返った。クラスメイトで友人の周防健一だ。律は彼を、けん、けんちゃん、と呼んでいる。 「おはよ」  おいーっす、と言う彼の表情は眩しい。眩しいよおまえ、と茶化すと、なにがなにが? と顔を寄せた。ここのところ調子の上がらない律にとって、周防の陽気さは体に染みて痛いくらいだった。校門を通過した辺りで彼に声をかけられ、下駄箱で上靴に履き替えても周防は喋っている。今日暑くねえ? 体育だりー、ゲームし過ぎて寝不足でさあ、佐伯今度一緒にやんねえ? 投げられる言葉にはすべて、律は、そうだなあ、と返していた。上の空であっても、周防はさして気にしていないようだ。 「なあ、けんちゃん」 「ん? 何、どした」  校内に入ってしまうと、外とは違って直射日光は当たらない。それでもやはり、湿度はこもっている。二階に一年生のクラスはあって、律も周防も五組だ。階段を上るころ、さまざまなクラスメイトから声をかけられる。おはよー、はよーっす、律はそれに随時返しながら、もう一度、けんちゃん、と呼んだ。 「あー、ゲームだっけ? いつにする?」  にっと周防は笑った。親友に嫌われたかも、とは言えなかった。  憎まれていた、のかもしれない。あるいは現在進行形で、憎まれているのかもしれない。けれどそれを覆うように好きだとも言う。好意を憎悪の蔓のような殴り書きで縛って目の当たりにしてしまうと、口に出して言葉にするのは恐ろしかった。現実になってしまいそうで。    律の高校生活は、決して悪いものではなかった。気兼ねなく話せる周防健一、そして、同じクラスで先日付き合い始めた鈴村里帆。彼女とは一年になったばかりのころに行われたクラスコンパで席が隣になり、気が合った。可愛くて、俗に言うとタイプだったのだ。正しく明るい高校生活だった。健全だし、はたして健やかだ。けれどその中に、蒼介はいない。それがときどき、律は無性に寂しくなる。  蒼介は決して、騒々しくない男だった。物静かであるのに、勉強も運動もできるし発言力もあって、クラスメイトからも信頼されていた。真面目すぎることもなく、誇示もしない。他県からきてぽつんと浮いていた自分に、律、と笑ってくれるひとだった。彼は穏やかだったから、律のほうが蒼介を引っ張ることが多かった。蒼介行こう、蒼介今日なにする? と先に彼を誘うことが多かった。  蒼介がいない高校生活には、ぽかんとする。不意に、彼がいないことに呆気に取られる。他に楽しいことは幾らでもあるし、他愛ない会話も冗談も、昼休みも放課後も、ジャンクでおいしく感じられる馬鹿げた時間の潰し方はいくらでもあった。いずれバイトだって始めるだろう。学力なんて高校を卒業して就職できる程度あればじゅうぶんだし、わざわざ教えてもらう必要なんてそもそもなかったのだ。それでも蒼介に連絡するのは、彼の隣にいる日々が心地良かったから。蒼介がいない毎日は寂しい。  心寂しくなるのは、おそらくそれまで、孤独を知らなかったから。自分は意外にもシニカルな男だったようで、父の蒸発も離婚も引っ越しも、繊細には堪えなかった。なんとかなるんじゃん? 今までだってそうだったでしょ? と大袈裟でも強がりでもなく、平気だった。最初から蒼介がいなかったらきっと、寂しさなんて知らないままだった。なのに。  もしかしたら、彼にずっと憎まれていたかもしれないのだ。じゃあなんで? なんで一緒にいた? 好きだって言ったのも嫌がらせ? なんらかの復讐?  考えていても埒があかなかった。その日の放課後、律は久々に蒼介の名前を、スマホ越しに見つめた。ふーっと深く息を吐き、一度止め、よし、と小さく言う。また明日な、とクラスメイトに声をかけ、教室を出る。校門を出て、すれ違うひとが減ってきたとき、もう一度スマホを取り出して蒼介に電話をかけた。着信音は長らく鳴り、ようやく彼はその着信に出る。けれど相手は、電話越しに無言だった。俺、と低く言うと、うん、と間が開いて返ってくる。 「今日、行っていい?」 「……いいけど」  じゃあ後で、それだけ伝えて手早く通話を終えた。今度は駅まで足を急がせる。電車を待つ数分でさえ、惜しかった。  インターホンを鳴らすと、蒼介はすぐに出てきた。お茶持ってく、上がってて。お決まりの台詞を聞いてから、律は彼の部屋に向かった。蒼介の部屋は、物があまりない。本は整頓されているし、あいうえお順に作家は並んでいる。おまえ神経質だよなー、なんて揶揄したことがあった。律が無頓着なだけだろ、そう言った蒼介はちょっとだけ照れ臭そうで、なぜ照れる、と思ったことを覚えている。  律、律、蒼介が呼ぶ「律」は誰とも違った。周防の呼び方は「佐伯」だし、里帆もまだ「佐伯くん」と呼ぶ。律、と呼ぶのは同級生では蒼介だけだった。昔から。  だからさあ、憎いとかまじでムカつくだろ、なんでだよって思うじゃん。  勉強机に、今日はノートは置いていなかった。隠したのか、と自然と考えてしまう自分が嫌だった。ほどなくして、蒼介が部屋に戻ってくる。整然とした部屋に、小さなテーブルが真ん中に置いてある。そこに蒼介は、今日もアイスティーを置いた。律の目の前に。  梅雨が始まったばかりのこの日は、雨は降っていないけれどじめじめしていて湿っぽい。首周りがねっとりして鬱陶しかった。そうだった、急いでいたのだ。駅までは小走りしていたし、電車を降りてからも早足で歩いた。蒼介の家についたころにはすでに多少息も上がっていて、呼吸を整えてからインターホンを鳴らした。ここまで来る間に、足と腕を動かしながら何度も、何度も、何度も聞きたい言葉を並べた。けれど、最終的に行き着くのは、なんで? だった。首筋の湿度には、気づかないまま。  蒼介は、エアコンをつけた。さーっと生温い風が首の裏を通る。機械音の唸りだけが通過していくばかりで、互いに口を開こうとはしなかった。ここのところ、ずっとだ。息苦しくなる空気も、吹き溜まりになる通り道も、解消したいのに声が出ない。ふと蒼介を見ると、彼は眉を寄せ、また水まみれの瞳をまばたきさせていた。 「律、おれは何を、言われんの?」 「え?」 「気味が悪いって話?」  気味が悪い? 復唱しても、蒼介は黙りを通した。彼の言う「気味が悪い」ものの根源は、ノートの話だろうか。だからこうして、目も合わせないのか。  氷が、か細く鳴った。動いたのは、溶けたからだ。 「いや違くて。俺、おまえに恨まれてんの? なんかしたっけ? つーか、あのノートの落書きの相手が俺って証拠はねえけどさ、俺なんだったらちゃんと言えよ」 「は? ちゃんと?」 「憎いって、普通にショックじゃん。嫌われてた? だったらごめん」  ずるずる、音を鳴らしながら、目を伏せてアイスティーを飲んだ。苦味は普通だった。異物混入の心配はなさそうだ。はは、なに考えてんの、だから。だからもう、早く終われ。謝ったから、俺は謝ったんだから、もう早く。 「ちゃんとって何? なんだよそれ」  思いがけず震えている彼の声に、逸らしていた目を蒼介に戻した。また彼は、雨水がしたたるように濡れた目で律を見ている。律は振り返った。まさか雨が降ってやしないか、と懸念して。レースカーテンが掛かっていて窓の外は見えない。薄ぼけた色味が滲んで、空が曇っているのはわかる。雨は降っていないようだ。正面を向き直してもまだ、蒼介の睫毛には水が滲んでいた。その上、律をねめつけてくる。  体を一瞬、僅かに後ずらせた。けれど、ほとんど位置は変わっていない。 「言った。おれ」  ちゃんと言ったよな、言った。喉元から湧き上がる灰色の蒼介の声が、律の鼓膜まで唸らせる。小さな声だった。かろうじて呟いたような細い声なのに、どこかに寄生してしまうほどの意思が根付いていて、脳裏にずっと残っている。 「ああそう、そんなふうに思うの、そうなんだ、へえ。そうだよ律のことだよ憎ったらしい!」  蒼介は律に近寄り、手首を掴み、律が後退ると追い込んでくる。
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