3-3

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「そうだよおまえだよ! おまえがムカついてしょうがねえんだよ!」  怒鳴られたのも、蒼介から「おまえ」と呼ばれたのも初めてだった。ずるずるとフローリングを引きずるように下がると、蒼介のベッドに背が当たる。一瞬だけ確認し、また前を向く。びしょ濡れの目の中に、形も確認できないほど大きな影を持った植物が見えた気がして息を吸った。ひゅっと喉が鳴り、吐き出す声もおざなりなものになる。  あ、と思った瞬間、蒼介の唇が律の唇に当たった。触れる、とか、重なる、ではなく、ぶち当たるがもっとも近い乱雑なやり方で、当然動揺する。テーブルの足に体のどこかが当たったのか、置いてあるグラスがやかましく鳴り響いた。膝が痛かった。どうやら膝をぶつけたようだ。どうでもいい話だった。 「なあ、なあ律」  どうして、と思った。なんで、と聞きたくなる。キスしたことじゃなく、なんで蒼介の目がどしゃ降りなのか、その大きな植物がなんなのか、律にはわからないのだ。 「律、触ってよ」 「な、なんで」 「律が、嫌いだから」  大っ嫌いだ。  そう言うくせに、蒼介は律の手首を離さなかった。じわじわ、じわじわ、彼の手の湿り気と熱さが手首に伝わる。指の先が痺れたようにかじかんで、暑いのに寒気が走ってうまく動かせない。  蒼介に導かれるまま、律は彼の体に触れてしまう。嫌いと言われたのに、嫌われていたと知ったのに、蒼介の滑っこい肌があまりにもなめらかで潤っていて躊躇しなかった。彼は律の首に腕を回し、律、律、と呼ぶ。離された手首にようやく血が通い、じんわりと熱がこもり始める。蒼介は律の髪に触れ、耳の形を撫でて確かめ、頬をなぞる。呼応するように今度は、律が蒼介の体を順にすべらせていく。そのたび、彼の生温い息がみだれて首にかかる。衣替えしたばかりの開襟シャツを握られ、握る指は細かく揺れていて、なぜだか加虐心と苛立ちが同時に降ってくる。  雨は降っていない。なのに蒼介は、目も身体中もどしゃ降りだった。一気に水分が広がって、エアコンの風の音も重なり合って耳障りだ。律、律、途切れ途切れ呼ばれて、もうどうしようもなく。  くそ腹立つ。ムカつくのはこっち。俺だって、俺のほうが、おまえなんか、おまえなんか大嫌いだ。  なぜこれが先立つのか。ムカついて苛立って傷付けてやりたい、衝動だけが駆け抜けるのはなぜか。湿気の中に、言いようのない匂いが漂った気がした。嗅いだこともないような違和感のあるそれに鼻を覆いたくなるのに、呼吸をするとなんということはなかった。むしろ、吸い寄せられてしまうのはなぜだ。首筋も脇腹もへその近くも噛みついた。もっと欲しくて近寄りたくて、植え付けられた衝迫を吐き出すみたいに、何度も何度も噛みついて舐めた。  蒼介はずっと、優しかった。勉強が苦手、ピーマンも苦手、甘いの好きじゃない、律がそう言って甘えると蒼介はすぐ、しょうがないなって笑った。甘いのきらいなのにピーマンも苦手なの? ほんとは苦いの好きなんじゃない? ちげえよ、ピーマンって葉っぱみたいな味するもん、そうして子ども染みた会話だって平気で、蒼介は友達だったし親友だったし身内みたいだったし、他人だった。一番身近な、他人だったのに。 「律、律、すき」  ぱっと弾けて、手にかかっている白い液体を見たとき、我に返ってぞっとした。脳天を思い切り嫌悪感が殴り掛かってきて、ティッシュで適当に拭いてゴミ箱に捨てた。律は蒼介を見下ろし、歯を食いしばり、強く拳を握り締める。蒼介は短く呼吸をしたまま、どしゃぶりのような瞳をしばたかせた。 「くそったれ! てめえなんか大嫌いだくそやろう!」  彼から目を背け、蒼介の部屋を出て、階段を降り、思い切り玄関ドアを開閉した。耳鳴りのように、ドアの閉まった音が残る。自宅までの帰宅中、ぬかるんだ気温のせいでまた首筋が湿った。あっちーな、気持ち悪い。首を掻こうとして、すぐにやめた。この手で蒼介を凌辱したことを思い出して、根が張るように苛立った。  自宅はアパートだ。玄関を開けたらすぐに台所、続いて居間兼母親の鏡台置き場、ここに布団を敷いて彼女はいつも寝ている。襖を挟んで、律の自室だ。母は今日も、仕事で帰宅は遅いだろう。友人のミツルのバーを手伝っているからだ。  襖を開け、自室のベッドに寝転がった。 「……くそ」  律、りつ。蒼介の声が消えない。短く泣くような呼吸の合間に、あんなに甘ったるく呼ばれたのは初めてだった。滑っこい肌、水をたくさん含んだ目、襟元を掴んでくる手の震え、柔らかな動きが拭えない。  制服のズボンのジッパーを下ろし、自分の性器に触れた。緩く勃ち上がっていて、嫌になる。ゆっくり動かし、次第に早くし、握る掌の力を強める。  律が嫌いだから。俺だっておまえなんか大嫌いだ。律、律、すき。  蒼介。  同じように弾けて、同じ掌に同じ色の違う液体がついて、ぞっとした。  脳みそを直接噛んで殴ってきた嫌悪感は、蒼介に対してじゃない。  嫌じゃなかったんだ、俺は。嫌じゃなかったからだ。殴られたのは、俺。
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