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 母が死んだ。  高校一年の寒い冬の日だった。牡丹雪がちらちら降り続け、積もりはしなかったが、コンクリートに落ちて溶けては消えた日。紺鼠色の地面に染みて同化してしまって、踏んでも手応えはなかった。隙間から覗く雑草は冬だから当然生えておらず、それでも地下に埋もれて根付いているのだと思うとぞっとした。  清掃の仕事をしている最中に、急に母は倒れたらしい。頭が痛い、とだけ言い残して返答がなかったそうだ。一緒に働いていて、救急車を呼んでくれた中年の女性が、律が病院に着いたときに教えてくれた。入院して三日間、昏睡状態が続いた後、母は息を引き取った。死因は脳卒中だった。  思えば、兆候はあったのかもしれない。倒れた日の当日の朝、片手が痺れちゃって、と言っていた。口調もどこかが覚束なかった。病院行きなよ、律が心配しながら小刻みに震える母の手から弁当を受け取ったのだけれど、彼女はいつものように笑っていて、笑顔で、こんなことで仕事休めないわよ、とからからしていた。母がその調子だったもので、まさか倒れるなんて予想もしていなかった。そもそも、「病院行きなよ」という言葉でさえ、気軽に放った言葉だったのだ。片手の痺れも、まどろっこしい口調も、受け止めるのではなく受け流していた。もう会えなくなるなんて、想像もしていなかったから。  行ってきますって言ったっけ? 今朝俺、行ってきますってちゃんと言ったっけ? 空になった弁当箱が入った弁当袋の持ち手を強く握りながら、機械に繋がれて眠る母を覗き込んだ。  ミツルの手助けもあって、葬儀もそこに至るまでの準備も、淡々と物事は進んだ。母は親族との関係を断っていたので、律とミツルだけで家族葬として行われた。ミツルはその日、派手なバンダナも黄色い瞼もばさばさの睫毛も、赤のワンピースもエナメルのパンプスもすべて封印し、黒のスーツに髪をきっちりと一つ結びでまとめた姿で現れ、最初は誰だかわからなかった。ミツルさん? と呼ぶと、いつもと同じしゃがれた声で、律、と呼んだ。潤んだ瞳が、いつもの黄色い瞼を思い出させ、普段のミツルと一致する。ぎゅうっと抱き締められたとき、一瞬だけ顎が頬に掠める。じょり、という髭剃り跡の感触に、初めて頬擦りされたことを思い出した。指と爪の美しさは、この日も変わらなかった。  火葬場から昇る煙を眺めながら、ミツルは煙草に火を点けた。律は、ミツルが煙草を吸うことも、彼はハイヒールを履かなくともすらりとした体躯の持ち主だということも、この日初めて知った。ふわっと流れる煙草の煙は、すすきの穂のようにおぼろげだった。昇り立つのは変わらないのに高い煙突からもくもく浮かぶ煙とは、なんでも一緒にならないらしい。低い位置で消えてしまう紫煙と律が吐く硬くて白い冬の息は、どう足掻いてもあの煙と交わらずにひとりぼっちで、ああ母ちゃんはあっちに行っちゃったのか、などと他人事のように考えてしまう。 「アサミとはね、あたしが昔ボーイやってた店で一緒だったの」  アサミ、とは母のことだ。 「ボーイだったからこういう、黒服でね」  そうして今度は、着ている喪服を指で摘んだ。やはり彼の指先の仕草は、目で追ってしまうほど綺麗だった。 「あんたその格好似合わないわよって言うの、あの子。あたしのことわかってたから、似合わないからこれ着なよって、ワンピースとかハイヒールとか、とにかくきらっきらしたものを持ってくるの。着れないって言ってもあの子も頑固だからさあ、ほら似合ってるってメイクもしてくれた」  今日も似合わないって言われちゃう、ずる、とはなを啜る音がする。短くなった煙草を、ミツルは携帯灰皿に押しつけた。 「だいちゃん、あんたの父親。あれはだらしなかったけど憎めなくてね、競馬もパチンコも一緒に行ったわ。負けても笑ってたし、あたしがこの格好でも、ミッちゃんすげえ似合ってるよって並んで歩いてくれた。あんたが産まれたときも写真送ってくれて」  段々と、はなを啜る音の間隔が、短くなる。 「そうだった、あたし、あんたが小さいころに会ってるの。そのころだいちゃんたちはT市にいて、家族であたしに会いに来てくれてね。オムライス作ったのよ、dreamingで。おいしいって、あんたケチャップいっぱい口の周りにつけてさあ、可愛かったのよ。三人とも、いっぱい笑ってて」  ああーなんでだろうね。ぽろぽろと涙を溢して終いにはえずくように嗚咽を漏らすミツルが、律はあまりにも不憫に思えた。なんということだ、彼が孤独を得られたのは、母と父がいたからだったのか。  まだ律には、どうしたって現実味を帯びなかった。あの煙が母だなんて到底思えない。明日の朝もしも、おはよう、と迎えられたらきっと、同じようにおはようと返してしまう。それよりも今、この先、あるいは一週間後を考えたとき、今後の生活をどうするのか、律にはよほど重要だった。おそらくそのころには、苛まれている。弁当箱を渡されたあのとき引きずってでも母ちゃんを病院へ連れて行けばよかった、一日くらい仕事休んだっていいじゃん、なんで俺は気づいてやれなかったのか、と自分を責め立てるに違いない。そうしてようやく、じわじわ絞められるようにして実感していく。  煙は未だに立ち昇っていた。一時間半近く、あの煙は昇り続けるだろう。律はミツルに近寄り、その体を抱き締めた。息苦しくなるほど噎び泣くのミツルに寄り添い、律は思う。  いやだつらい。  ひとりだ。  蒼介に会いたい。  蒼介が憎たらしい。  切望と憎悪が一緒くたになって、腕と指に力がこもる。ミツルの体を強く、強く抱き締めながら、抱き締め返され、嗚咽と鼻水を体に浴び、蒼介がここにいないことを忌まわしく思った。  蒼介とは、あれから会うことはなかった。連絡も、当然していない。互いに歪みあって怒鳴りつけたままで、言い訳も冗談にもしなかった。嫌悪を体にこびりつけて日々を過ごし、忘れたいと願った。いなくなれ、と懇願した。  その彼は、希望通りいなくなった。だから、なんで、どうして!  俺がこうしているときに、この先、後悔という罪悪感に苛まれる日々を送るだろう明日に、蒼介はなぜ、「律」と呼ばないのだろう。  嫌悪を残す蒼介が憎い。滑らかな肌の感触を思い出させる蒼介が憎い。目を閉じると雨水にまみれた瞳を浮かばせる蒼介が憎い。忘れさせてもくれない蒼介が憎い。俺を嫌いだとのたまった蒼介が憎い。  俺をひとりにする蒼介が、孤独の意味を教えた蒼介が憎い。  ミツルの肩に瞼をなすりつけ、背後に上がる煙を浴び、短く小さな声を上げた。律、律、そうして呼ぶ蒼介を想像し、律は大丈夫だよ、おれがいるよ、と後ろから背中に凭れてくれる蒼介を頭の中に描いた。  母ちゃん、明日も明後日も適当に励みます。ごめんね、気づいてあげられなくて助けられなくてごめん。蒼介と出会わなければこうして、彼女が亡くなったあとも、手を合わせて懺悔を偽りなく唱えられただろう。けれどあれと出会って、寂しさを知ってしまったらもう遅い。  理解も納得もできているのに、理屈だけが通らなくなる。 「さみしい」 「そうね」 「さみしいよ」 「そうね」  ミツルとぎゅうぎゅうに抱き合いながら、目から水分を溢していった。紺鼠色の枯れた地面には、植物は生えていなかった。
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