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   ラフレシアって知ってる?  律にそう言ったのはミツルだった。単に疑問を投げているようでもあったし、世間話のひとつとして扱われているような、平坦な口調だった。ミツルの表情からはおよそ見破れない。何しろ自分には土台と経験が不足しすぎていて、律の想像はとても及ばなかった。  彼、いや彼女は、律が高校在学中に亡くなった母親の友人だ。この土地に引っ越して来てから、何かと面倒を見てくれる人だった。仕事を終えても帰宅に身が入らず億劫になるときは、ミツルが経営しているバー「dreaming」で飲むことが多い。  今夜もそうだった。足は自然と、dreamingに向かっている。  日雇いで土木水道作業員をしている律は、呼ばれればどこでも行くし、粗方のことはする。この日は一日中、漏水調査とトイレの水漏れを修繕し、人妻から、助かったわありがとう、なんて微笑まれた。なかなかいい香りを漂わせる女性で、声を掛けられたらふらりと付いて行ってしまいそうだった。もっとも、そんな都合のいい話は転がっていないので、微笑み返してお茶を一杯ご馳走になっただけで終わっている。  夜が来ると、帰宅するのが憂鬱になる。一旦電車に乗り最寄駅で下車したものの、上り線に乗り換えて二つ手前の駅に向かった。dreamingの前に立ち、木製のドアを開ける。律が座る定位置のカウンターがこの日は空いていたのでそこに座り、ミツルさんビールちょうだい、と言って、カーキのモッズコートを脱いだ。秋の終わりの夜は冷える。ビールグラスをコースターに置くそのひとの指先は、今日も整っていた。派手な化粧をしていてぎょっとする見た目なのに、仕草も指先も、このひとは昔から綺麗だった。  律が初めてミツルに会ったのは、中学に入学する前だ。母は、頼れる友達がいるからそこに行こう、と言った。父親が離婚届だけを残して蒸発してしまったからだ。とはいえ、母はあまり動揺してはいないように見えた。あのひとは流れちゃうひとだからね、わたし達も流れちゃおうか、と目を伏せた横顔だけが、寂しそうだったのを覚えている。  母が頼りにしている友達は、長い髪を一つにまとめてエスニック調の派手なバンダナを巻き、瞼の上は真っ黄色で長い睫毛は真っ黒というひとだった。まばたきするたびにばさばさ跳ねる睫毛に、今にも飛んでしまう生き物なのかと勘違いする。えんじ色に近い赤のワンピースにもっと真っ赤なエナメルのハイヒール、何より、髭剃りの痕が残るれっきとした男性で、あまりの顔面の強烈さに後ずさった。彼は、あんた律? かわいくなったじゃん、と豪快に笑い、手を差し伸べてくる。表面の力強さに反して、整った指先、流れるように差し出された掌が、圧倒されるほど美しかった。  指、きれいですね、おずおずしながら手を差し出すと、かわいい! と抱き締められて頬擦りされた。髭剃りの跡が痛いのに、笑ってしまった。  それからというもの、律にとってのミツルは良き相談相手でもあり、避難所でもある。彼のバーは今日も繁盛していて、スタッフも忙しく働いていた。 「ねえミツルさん、お腹空いちゃった。なんか食わせてよ」 「あんた、昨日も無銭飲食だったでしょ。今日こそ払ってもらうからね」 「はいはい、ごめんね」  昨夜は確か、閉店まで飲んでその場で突っ伏して寝ていたらしく、ミツルにおぶってもらって店の二階の彼女の自宅兼仕事部屋に泊まったらしい。重かったんだからね⁈ と朝からひどい剣幕だったので、律は耳を塞いだ。ごめん、ほんとごめん、とおざなりに謝罪をしつつ、おえ、と胃袋を皮膚越しに摩っていた。違和感を感じたまま仕事へ行き、結局またここに来ている。 「まあいいけどさ、あんまやけ酒するんじゃないよ?」 「はいはい、ごめんね」  ビールグラスに手をやり、コースターから外してビールを飲んだ。昨夜だって散々飲み、胃の粘膜は弱っているはずなのに、なぜこうしているのだろう。ごめんね、の声色が、どうしても低くなる。今日のお通しは筑前煮だ。相変わらず趣味のいい藍色の器で、出汁の匂いが器に沿って鼻先をくすぐってくる。昼間から仕込んでいるだろう煮物を一口つまむと、醤油と鰹出汁が、舌の上にじゅわりと染みた。次にきのこの和風パスタが出てくる。彼が作るパスタは、律の体を気遣ってか具沢山で野菜が多目だ。これもまた、出汁の匂いが心地良かった。  ミツルは次々と客の相手をし、けらけらと笑って、ときには下品な会話で笑わせ、そのくせ悠然な仕草と指先は隠そうとしないから、自然と女性客にも人気があった。律はそれを眺めながら、ビール一杯と筑前煮、きのこの和風パスタを綺麗に平らげ、ごちそうさまでした、と手を合わせる。  一万円札をテーブルに起き、帰るね、とミツルに声を掛けた。 「ちょっと、こんなに要らないわよ」 「親孝行。母ちゃんにはできなかったから」  彼は口をつぐみ、整った爪を見せながら一万円札に触れる。 「……じゃあ最初っから無銭飲食すんなよ」 「はは、ごもっともで」  モッズコートを手に取り、腕を通す。土の匂いが、ゆるりと目の前を通った。毎日これを着て仕事に向かうから、当然だった。 「ねえ、律」 「ん?」
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