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(……、…………)
え……?
さわさわと聞こえる店の客の談笑に交じって、なにか聞きなれない言葉を聞いた。千秋がぽかんと砂本さんを見ていると、砂本さんは困ったように苦笑いした。
「……そんなに驚かれると、困るな……。そんなに意外だった?」
コクコクと頷くことで応える。砂本さんは、そっか~、と困ったように頭を掻いた。
「え……、ど、どうして、私なんですか……?」
砂本さんは課内のムードメーカーで部、部課長からも信頼されている。任された仕事は完璧で、後輩の教育にも熱心な、人好きする笑みが魅力的な男性だ。女子社員から見たら、かなり『イイ男』の部類に入るだろう。
その砂本さんが何故地味で目立たない千秋なんかを良いと思ったんだろう。何か仕事で失敗でもして目立っただろうか。そんなことを考えていたら、砂本さんが微笑った。
「綾城さん、何時も人が嫌がるような仕事を淡々とこなしてるでしょ。他の女の子だってお茶汲みやごみ捨てってやりたがらないもんね。よくやるなって思ってたんだよ」
そんなことで?
「で、でも私、…昔から地味で目立たなかったので……、その……」
そう言って脳裏に鮮やかによみがえる、春の青空を切り取った教室の窓。うららかな日差しの中で、千秋のことを好きだと言った、渡瀬くん。
本当は、あの時返事を出来なかったことを後悔していた。もし千秋があの時「はい」と返事をしていたら、今みたいな地味な生活と違っていただろうか、と。
それと同じ分岐点が、今、来ている……?
どきんどきんと胸が鳴る。それはときめきではなくて、焦りから来るものだった。
「あの……、わたし、……あの……」
砂本に応える声が急に震えた。此処で人生が決まってしまうのではないか。そういう、大きな決断だった。
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