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それでは、と低い声でつぶやいた後に、なにやら小説の作法のような文言が佐藤の口から続けざまに放たれた。言っていることがまるでわからない。ただ、佐藤が俺よりも、はるかに小説にくわしいことはよくわかった。
ところで、と佐藤の口ぶりが変わった。
「どうしてこの小説を勧めたのですか」
作者が妻であることを明かした。そして、先ほど聞いた佐藤の指摘を、作者に送りつけてもいいかと確認した。
これが予期せぬ事態に発展した。
「奥さん思いですね」
少し笑い、佐藤は言葉をつないだ。
「もしよければ、添削しましょうか」
その後に聞いた話で、俺は佐藤のまだ見ぬ顔を知ることになった。
大学に通っていた時から小説を書いており、今も年に幾作かを文学賞に応募している。地方自治体が主催する賞では、入選の経験もあるらしい。
無愛想な、ただの本好きではなかったのだ。妻と言い、佐藤と言い、女は仮面をかぶるのが上手いな。
佐藤は仕事が実に早い。退社するころには、先ほど読んだ作品へのアドバイスを細かく記したメールをよこした。
妻と俺を不愉快にした、あの評論家くずれの文面とはまったく違う。作者に気遣いながら、しかし、見直しが必要な箇所には具体的な指示がなされている。
ところどころを俺なりの言葉で書き換え、妻へと送信した。今までにない長い感想となった。
そして、妻からの返信も過去最高のボリュームであることを、帰宅途中の電車内で確認した。
家に帰りつき、開けた扉の向こうには充実した笑顔があった。
「おかえりなさい」
声も舞うように軽い。
「とても勉強になります。細やかなご指摘に感謝します」と書かれた妻の返信は、嘘ではなかったようだ。
佐藤からは、一週間に一度ほど添削が届けられた。そのたびに、妻に伝える。もちろん、俺が書いたことにして。
俺の送るレビューは、もともとの俺が書いた感想と、佐藤からの批評の二段がまえとなった。どちらも妻は、心待ちにしている。
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