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視点の理解って、
多分10人いれば10通りありますよね?
だから、
この人の説明はしっくりくるけど、
あの人のはよく分からん。
ってのがおこりがちです。
あくまで、
私の理解方法をざっと書き綴っておきます。
もしも、
参考になれば幸い。
私は、
いわゆるビデオカメラ理論で
視点を考えております。
筆者が映画監督になった気分で、
誰の後ろでカメラを構えるか?
ってことから、
視点をイメージする方法です。
読書よりも
ドラマや映画の娯楽を楽しんできた人間らしい理解方法です。
カメラの撮り方は、
大雑把に三つに分かれます。
・1人称
1人……、というよりも、
筆者自身が主人公になってカメラを取り続ける。
ドキュメント番組みたいなイメージ。
私が思ったことを、
そのままバンバン地の文に書き込めます。
しかし、
相手が思っている事は書けません、
やったら主人公はエスパーになっちゃいます。
相手の考えは、私の想像としてしか書けない。
だからこそ、
表現に幅ができたりするのですが……。
個人的に思うのは、
女性作家さんが得意としているイメージです。
”まただ、さっちゃんは昔から、
どこか私を見下すような言葉をかけてくる。
さっちゃんのそんな言葉を聞くたび、
私の頭には小学生だった頃の記憶が蘇り、
心臓が締め付けられるような錯覚を覚える”
”三十年間、
私に対して母の陰口ばかりを投げかけてきた姉は、
最近母に似てきたように思う。
しかし、そんな事は間違っても姉に言えるはずもなく、
私はその言葉を、そっと胸にしまった。”
こんな感じの文章。
会話と感情のすれ違いや、
心に押し込めた感情を書きあらわすのに有効です。
この辺、
女性作家さんの方が
圧倒的に上手な印象。
男性作家は、
どう足掻いてもこのフィールドでは戦えないと、
個人的には考えております。
・三人称
一番ドラマや映画に近いイメージ。
1人の登場人物の後ろに
カメラを構えて追っていく。
人称は、
「私」ではなく、
固有名詞になります。
太郎は、花子は、とかですね。
心理描写については、
撮っている対象の相手の感情だけは、
書き込むことができます。
太郎を撮っているなら、
太郎の気持ちを書ける。
ただし、三人称なりのルールがあります。
”憎悪のあまり、殺してやりたい。太郎はそう思った。”
こんな感じに、
太郎がそう思ったことを、
地の文であらわさねばなりません。
(ちなみにこれ、
現在校正中の作品で、
『と思った』を結構消されております……。
ちょっと、まだ塩梅がわかりかねていますが
自分なりの理解が固まったら、
また書き綴っていきます)
一見面倒臭いのですが、
慣れればそこまで気にならなくなります。
しかしこのルール、
心理描写多めの話を書きたいなら、
ちょっと不利になります。
いくら心理描写を入れたいからって、
すべの会話や文章に、
「太郎はそう思った」
で閉めてしまったら、
恐ろしく、クドい小説が完成してしまいます。
どちらかというと、
ストーリーメインの話に合いそう。
心理描写は、ほどほどに……。
さて、心理描写の観点からすると、
1人称の方が圧倒的に有利なのですが、
3人称には、1人称には無い優位性があります。
視点を変えられることです。
太郎を撮っていたカメラで、
花子を撮ることもできるのです。
まさにダブル主演。
それは言い過ぎですが、
サブ主人公としての心理描写や、
その人物から見た主人公の印象を表現できたりします。
1人称小説だと、
主人公が知りうる事以外の情報を
書き込むことができないという、
結構大きな縛りがあるのですが、
長い話になればなるほど、
1人だけの視点だと、ストーリーを表現しきれなくなります。
そこに対する切り札が、
視点の切り替えです。
なので、
1人称の方が物語の自由度が増すのです。
長編になればなるほど
1人の視点では、キツくなる。
ただし、視点の変えすぎには注意です。
群像劇のように、
何人ものキャラに焦点を当ててしまうと、
読者さんが混乱してしまうからです。
こちらも、心理描写と同様、やりすぎ注意。
長編小説でも、2−3人までにしておくほうが無難だと思います。
・神視点
度々議論になる神視点。
常に、カメラを引きで撮った映像。
全ての世界を見えている人が、全部説明しちゃうお話。
神が語ってるみたいだから、通称神視点。
筆者が思っていることを何でも書けちゃうから、
説明しやすいけど、
感情の変化を追う的な面白みは、
はっきり言ってない。
子供が読むような、
伝記とか昔ばなしの絵本は、
大体神視点です。
”おじいさんは山へ芝刈りに、
おばあさんは川へ洗濯に行きました。
どんぶらこどんぶらこ、
桃が流れてきました。
おばあさんは桃に包丁を入れ……。”
大人が真剣に読んでも眠くなっちゃうし、
何より感情移入できない。
文学賞でも、基本は神視点ってだけで敬遠されるらしいです。
つまるところ、神視点自体は積極的に勉強する必要ないと思う。
しかし、文学賞に挑戦する上で、
大切なことがあります。
逆説的な理屈ですが、
神視点にならないこと。
視点がブレて神視点が入り込むと、
大幅に評価が下がる危険性あり。
というか、文学賞については、
神視点にさえなっていなければ、
おおよそオッケーなんじゃないの?
とさえ思ってます。
私は基本、三人称複数視点で小説を書いています。
気をつけてるのは、神が突然出現しないこと。
現在、十本近い長編を書いていますが、
書いているうちに神様は滅多に現れなくなりますのでご安心を。
結局は慣れなのですが、
最初のうちは、
きちんと矯正してもらって、
その後慣れた方が、無難です。
スポーツのレッスンとかも
そうですもんね。
さて、
自分なりの視点の話をしたところで、
次回から、
再び文学賞挑戦の経緯に戻っていきます。
プロトタイプの小説を
書き上げた後のことです。
読者さんの大切さに
改めて気付かされました
そんなお話。
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