第二章

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 涅はゆっくりと瞬きをして、鏡越しに白臣を見上げた。 「ねえ……それだけですか?」 「自分の心が悲しみで破裂しそうなのに、打算や不快の感情なく誰かに手を差し伸べられる。そんな魂に遭ったことがなかった。お前の言う「おいしそう」とはそういうことだろう」 「ふーん……まあ白さんも、玉湾様も、執着するのにたいした理由なんてないのかもね」 「だから執着はしていない。ただしあわせに過ごしてくれるなら、それに越したことはないだけだといっている」 「だいたい、しあわせってなんですか? そんなの人間が勝手に作り出した概念ですよね」 「まあ、今俺は人間だからな。その意味を考えてるよ、ずっと」 「じゃあ白さんは今、しあわせですか?」 「俺?」  自分自身を対象としては、まったく考えたことがなかった。例えば満足感や達成感は理解できるが、それがしあわせということなのだろうか。 「あの子のしあわせを願うのはわかったけど、例えば、自分が不二夫をしあわせにしてあげたいとは思わないんですか?」 「ありえないだろう。死神が、人をしあわせにすることなどできない」 「さっきは自分のこと人間って言ったじゃないですか。とんだダブスタだな」 「相手が誰であれ、そんなことは望んでない。そもそも玉湾の操作で人間界を廻らされてるだけなんだから、足掻くだけ無駄だろう」  いくら話しても平行線なので、さすがに涅も飽きたのか、急に自分の姿をチェックし始めた。 「ねえちょっと切りすぎてません? 大丈夫ですか?」 「俺の腕を信用しないのか?」 「いや、器用貧乏タイプなのは知ってるけど、下界のハサミで切られると、案外伸びるのに時間がかかるから」 「お前もそういうの気にするんだな。意外だ」 「下界ってなんですか?」  唐突に後輩から声をかけられ、飛び上がりそうになる。ずっと周囲には聞こえないよう涅と会話していたつもりだが、夢中になりすぎていたのだろうか。 「ああっ! …………あーあ」  驚きすぎて握っていたハサミを落としてしまった。店内の空気が途端に凍り付く。それから同情的なため息が聞こえた。 「す、すみませんっ!! 急にオレが話しかけたりなんかするから」 「いやいや、お前のせいじゃない。俺がミスっただけだよ。大丈夫だから」  土下座せんばかりの後輩をとりなし、スペアのハサミを取りにバックヤードへ入る。誰もいないのを確認して、頭を抱えて座り込んだ。 「はーあ……じわじわくるな、これ」  迂闊だった。後輩に非はまったくないが、ハサミを落としてしまった事実は辛すぎる。  美容師人生で二度目。一度目は今よりずっと稼ぎも少なくて、リアルに泣きたくなるくらいのショックだったが、今回は金よりも時間と快適さが惜しい。  白臣の場合、スペアのハサミはいつものものとまったく同じ品だが、それでも使い心地が違う。早々にメンテナンスへ出さないと。 「おーい、大丈夫か? そりゃ落ち込むよな」  ハサミを落とす悲劇は、美容師皆の共通認識だ。北条が気の毒そうにやってくる。 「このあともう予約なしだろ? あの若いお客様とも知り合いみたいだし、終わったら今日はもうあがって、メシでも行ってこい」 「えっ、ゴメンですよ。あいつとメシなんて」 「ん? でもお客様の方は「地元で兄かわりだったんです」ってうれしそうに言ってたぞ」  涅のやつ……なにが悲しくて、死神と食事なんかしなければならないのか。 「いつも働き過ぎなんだから、昔話でもすれば気分転換になるだろう」  半ば追い出されるようにして店を上がった。  まあ、あのまま白臣が残っていると、どんなに自分を責めるなと言っても後輩は気にするだろうから、今日はもう自分はいない方がいいだろう。  帰り支度を終えて店を出ると、裏口では涅が待っていた。 「ふーん、結構インパクトのある店知ってるんですね。意外だな」  エスニック料理が食べたい、と涅が言うので、以前不二夫に連れられて行ったことのある駅前のタイ料理屋に入った。  狭い店内は、トウガラシの辛み成分が気化して空気に混ざるのか、初めて訪れた時はむせてしまった強烈な思い出がある。味付けもパンチが効いていて「日本人向け」にしていない。値段も良心的で外国人の客も多く、狭い店内は満席だ。 「不二夫が教えてくれたからな。しかし……本来食料なんかいらないだろ、お前には」 「いいじゃないですか。何事も体験なんだから」  本当は涅とじゃなく不二夫とまた来たかったが、辛さを抑えない本格的な味付けは不二夫には辛すぎたようで、次はないと思っていたのだ。反対に白臣にとっては好みの味だったので、また食べることができるのは少しうれしい。
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