第一章

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「ここ、結構気に入ってるのにな……また来られるかな?」 「どうでしょうね。命綱が、初めてお目にかかった頃より随分と細く見えますけど」 「えっ、うそでしょ? ここに来るのは楽しいけど、まだ死にたくないよー」  慌てたタツキが店を去ると、手つかずの飲み物を片付けに行く。  これはフローズンドリンクといって様々なフレーバーがあり、近年下界で流行っているそうだ。  バックヤードに戻り、不二夫はストローを咥えた。口に含んでみたが味はせず、砂を飲んだような気がするだけ。 「……だめだよ、不二夫」  白に頭を叩かれる。結構な高さから腕を振り下ろされたはずのに、少し風が起こるだけで手応えがない。当然痛くもない。 「すみません」 「禁止というわけではないが、面白くもないだろう」 「そうですね……」 「それにしても言うようになったじゃないか。命綱だって? そんなもの、この店では見えないはずなのに」  それでもあの慌てぶりからすると、タツキも自覚があったはず。だから当たらずとも遠からずなんだろう。このところ頻繁に来すぎていたから。  あの綱は案外脆い。切れてしまったらそれは、死を意味する。けれどそんなこともドアベルの音に振り向いた瞬間、忘れてしまった。  いつもそう。前にも同じようなことがあったのに、忘れたことすら忘れる有り様。  ここに来てから、あらゆる実感がまるでない。温度や感触、味も。  すべてが、夢の中みたいにふわふわしている。  チリンというベルの音は来客を知らせるものだ。不二夫は入口へ急いだ。 「いらっしゃいま……えっ」 「やあ、おまえ! こっち、こっち!」  不二夫が出迎えるよりも先に、店の奥から中年の男性が駆けてきて、来店した女性に呼びかけた。 「やあ、待ちくたびれたよ。随分長生きしたんだねぇ。こんなばあさんになっちゃって。ぷぷっ、でも俺の加奈子だ」  男性が心底懐かしそうにして、おばあさんの手を握る。ここでは珍しくないが、数十年越しの感動的の再会のようだ。だが違和感が。  先程から、女性が一言も発していない。再会を果たした人は、大抵思い出話が止まらないのが常なのだが、どうも様子が変だ。女性は握られた手をやんわりとほどいた。 「人違いじゃございませんか?」 「は? お前加奈子だろう?」 「たしかに私は加奈子ですが……ここは先に亡くなった人、会いたい人に会える喫茶店なんですよね」  女性は首をかしげて不二夫を見上げた。 「そうです」 「それなら、私が望んでいるのはこの人じゃないわ。おそらく……私の母がいるはずですが」  隣で男性の口が、陸に上げられた魚のようになっている。後ろからは白の舌打ちが聞こえた。 「(ヘキ)の野郎……またしくじりやがったな……クソッ、面倒なことしやがって」  白の暴言がお客様にも聞こえそうだから、もう少し声のトーンを下げたほうが……と心配になりながら、ふたりを見やる。  幸い白の声は届いていないようだが、感動の再会にむせび泣きそうだった男性と、かの虫でも見るような女性の温度差がすごすぎて、この場をどう収めればいいのかわからない。  おろおろしているうち、白が店のダイヤル電話の受話器を持ち上げた。  店内にしっくりなじむ、木製で真鍮作りのアンティークなデザイン。どういった仕組みかわからないが、持ち上げることで勝手にダイヤルがぐるぐると回り、目当ての相手と話せる代物らしい。 「おい碧。今すぐ店に来い!」  華奢な受話器が乱暴に置かれた瞬間、入口に男がやってくる。  明るいブラウンのマッシュヘアに、目の覚めるような深いブルーグリーンの瞳を持つ長身の男。  瞳と同じ色のスーツ姿の死神、碧だ。 「しろぉー、オレまたなんかやっちゃった?」 「なんかじゃねえ。『お取り違え』だよ」  この喫茶店にいる人たち、つまり客は亡くなった人間だ。ここは、死んだ人が先に死んだ人と面会することができる場所。  人は亡くなると時間の概念がなくなるそうで、互いの思い出の中でしか存在できない。  あの世では、生前の関係性を保ったまま同じ次元で会うことは叶わないから、うちみたいな喫茶店が存在する。ほぼ同じ時間軸で会える、最後の砦みたいなところだ。 「うわー。マジか」  面会は基本的に双方合意で行われる。通常片方の思いだけでは成立しないのだが、どういうわけかこの男性は成立後の体でここにいる。  碧は頭を抱えた。だがそれはどこか芝居じみていて、まったく反省している様子はなさそうだ。 「加奈子、俺はずっと待っていたんだよ。お前を置いて先に逝ってしまったから、心配で心配で」  懐かしそうにする男性が一歩すり寄る度、女性が一歩退くのでその距離は一向に縮まらない。 「あなたって本当にひとりよがりよね。昔から」 「へ?」 「そんなに私が心配なら、お空の上からあなた亡きあとの私や子どもたちを見なかったのかしら」  男性の目が途端に泳ぐ。  先程から聞き心地のいいことを言っているが、実のところ家族を見守った記憶はないらしい。それが女性にはお見通しなのだろう。 「少しでも見守っていてくれたなら、私が伸び伸びと生きていたのが伝わったでしょうにね」 「そんな……お盆やお彼岸は、神妙にしていたじゃないか」 「それは私が常識人だからですよ。それよりも日常の私を見てほしかったわ」  男性はきっと、遺された家族は自分がいなくなったことで悲しみ、泣き暮らしていると思いこんでいたはず。絶対そうだ。だから確認もしなかったわけで。 「子どもたちよりずっと手はかかる。ろくな稼ぎも無いくせに威張り散らす。家のことはほとんど私ひとりでやりくりしていたわ。男を見る目がなかった自分を反省していたからね」 「加奈子ぉ……」 「あなたがいなくなってからは第三の人生っていうのかしら。それはもう、楽しくしあわせに過ごせたのよ。母は私の辛かった時期に逝ってしまったから、余生はしあわせだったから安心してと伝えたかったの」  ほどなくして店の奥から老婦人がやってきた。目の前の女性と似ている。 「お母さん!」 「加奈子、よく来たわね。人生お疲れさま」  見た目はほぼ変わらない年齢に見える母娘は、うれしそうに手を取り合っている。ここへ来て初めて、女性の笑顔を見た。 「加奈子、ごめんね。自分の二の舞はさせたくなくて自立した女性にと思ったのに、あなたはしっかりしすぎちゃったもんだから。なんでもひとりで抱えることになって……」 「あら、いいのよ。なんでも自分で決められるって、しんどいこともあったけれど、自由だったわ。こんな男を選んで失敗したのだって、それもやっぱり私の自由だもの」  もはや周りの男たちは完全に置いてきぼりだ。  案内せずとも母娘は席に行ってしまい、不二夫は慌てて女性の紅茶と、老婦人のおかわりを用意しにカウンターへ向かう。 「なーんだ、丸くおさまったじゃん。オレいらなかったじゃんって……い、てっ」  拳骨が碧の頭に落とされる。だが鬼のような白の表情を見ても、首をすくめるだけだ。……強い。 「お前……始末書は厚さ一センチ以上だからな」 「いやいや……時代はペーパーレスでしょ。白、いだっ!」  ふたり共、言い争うのは自由なのですが、ひとつ忘れていますよね。 「あのー、私はどうすれば」  女性たちはもはや彼に対して怒る価値もなかったのか、いないも同然に扱われていた。置き去りにされた男性は行くあてがなく佇んでいる。 「お客様はぁー判定、済んでます?」  無機質な声が男性に問いかけた。こういうときの碧は本当に意地が悪い。(自分のせいだけれど)急な呼び出しをくらったこととか、これから山のような始末書を書かなければいけない鬱憤を、男性で晴らすつもりだろう。 「判定……あ、済んでます。あの私、……短期コースって……言われました」 「うーーっそーー。嘘だね!!」 「ええっ」 「あんたは中期コースだ。それで今嘘をついたから中期コース×2になりましたー」 「そんなっ」 「こっちからは判定の結果は丸見えなんだよ。頭の上に刑期が浮いてるんだから」 「ひどいです! 騙したんですね」 「騙しただと? 自業自得だろうがー。人間、死んでもそう簡単に性根は入れ替わんないもんだね。だいたい、死神を欺こうなんざ百万年早いっての」  あ、碧がいきいきしている。いや死神なんだけれども。 「あー、思い出してきた。あんたが死んだとき、迎えに行った俺が閻魔様のところまで案内する間に、勝手にここへ来たろ? ったく、変な能力だけは持ってるんだな。判定はいつ済ませたんだろう?」 「加奈子が来るまで待っていたかったんだ! あ、愛していたから」 「本当かなあ? 判定結果に怯えて、ここに隠れていただけじゃないの?」  それから碧は、男性が家庭を顧みずギャンブルや女遊びを繰り返した挙げ句、病気になってからも家族や病院や散々迷惑をかけて死んでいったことが、刑期が長めである理由だと男性に伝えた。  その様子は冷酷で、不二夫は温度を感じないはずなのに震えがきた。碧は他の死神にくらべてちょっと抜けているところもあって、なじみやすいなんて思ったこともあったけれど、やっぱり死神は死神だ。「人の心」なんてものは持っていない。  男性は碧に首根っこを掴まれて、店を出て行った。判定が済んでいるなら、地獄の門を目指しているのだろう。
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