第二章

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 それからはあっという間だった。  本当に、人間の一生なんてあっという間だ。こんなしあわせの中だと特に。  何代にも渡って拗らせてきた思いがあるから、はじめのうちは慣れなくて「俺の気持ちが信じられないのか?」と不二夫に叱られたりした。  それも次第に慣れてきて、不二夫は無事学校を卒業して就職も決まり、パティシエとして働き始めた。白臣も仕事は順調で、ひと時よりも笑顔が増えたと同僚から驚かれたりした。  一緒に住み始め、忙しいながらも寄り添って、ふたりで愛を育んだ。共に年を重ねることができるのは、何にも替えられない幸福だった。  そして今、目の前には命を終えそうな不二夫がいる。死にゆく人を数え切れないほど見てきたから、もう長くないのはわかる。  だけれど当事者になるのは、こんなに胸がつぶれそうなこととは知らなかった。 「ごめんね、白臣さん」 「なぜ謝る?」  このところ眠っている時間が多かった不二夫が、久しぶりに言葉を発した。 「白臣さんのこと、看取る予定だったんだけどな。俺の方がずっと年下だからって油断してた」  そんなのはだめだ。見送るのは俺の役目だから。 「いつか、白臣さんが言ってくれましたよね。最高の伴侶に出会うって。心から愛する人をみつけて、その人に大切にされるって……本当にその通りになったな」  不二夫の手をそっと握りしめた。まだ温かいことに安心して頬を寄せる。 「白臣さんと恋人になれてから、たとえ喧嘩をしても、理解できないことがあっても、ずーっとうれしかったな。あなたと一緒にいて、髪を切ってもらえて」 「俺も、不二夫と一緒に年を取れることがうれしかった」 「年取ると不便なことが多いのに。それでも?」 「それでも」  それは宇宙の理のなかで、とてつもない奇跡に違いないから。  思えば不二夫には、初めてを教えてもらってばかりだった。笑うことも、食事の愉しみも。  それから、初めて不二夫を抱いた日に思ったことを、今でもずっと思い続けている。 「それってすごいことだよな」 「すごいことって?」 「次……もしも次があるのなら、教えるよ」 「そっか、じゃ、楽しみにしています。ねえ、白臣さん」 「うん」 「生まれ変わってもまた、一緒になりたいですね」 「だな」 「絶対ですよ」 「…………うん」  不二夫が死んでからは、自分の寿命がくるまでずっと、泣き暮らした。  うれしいことも、悲しいことも、どちらを思い出しても涙が出てくるのだから仕方ない。あとの人生は出がらしみたいなものだから、どうでもよかった。  やがて、自分にも死神の迎えがくる。花だ。 「待ちくたびれました」 「白、違うわね。白臣さん、人生お疲れさまでした。今回はわりと長生きしたわね」  死神の迎えがきたら、ずっと話そうと思っていたことがあった。 「花さん、玉湾の参謀になるのも、人として転生するのも拒むことはできますか?」  どの死神が迎えにきても切り出すつもりだったが、相当揉めるだろうと覚悟していた。  特に花のような位の高い死神には、一笑に付されると予測していたのに、意外に驚きもせず、白臣の話に耳を傾けている。 「そのふたつ以外なら、どんな責め苦でも受け入れます。なにか方法はありませんか」 「なぜそんなこというの?」 「もう見たくないからです。次の人生で、自分ではない誰かと添い遂げる不二夫を」  死ねばまた白臣は白に戻り、その魂は玉湾に捕らわれるだろう。そうしたらまた、前回までと同じ、不二夫を見ていることしかできない人生だ。 「このしあわせな記憶の上に、重ねるものなんていらない。それならば無間地獄のほうがいい」  人間としての人生も、死神としての役割も全部なくなってしまえばいいと思うが、そんな都合のいい話はないだろう。  それに白臣が思いつめた末の悲愴な願いも、死神には理解してもらえるわけがない。わかっている。ただ口にしてみたかっただけだ。  しばらくすると手を引かれ、白臣は自分が膝を抱えてうずくまっていることに気づいた。頭をあげると、厳しいなかに憐憫の表情をのぞかせる花がいる。 「あなたが人として生きるのをやめても、あの子はまだしばらく人間界を経験させられるはず。仕方がない理由があったにせよ、最初の魂が自死をしているから。修行が必要なの」 「わかっています。ただ俺が、人間としてそばで見ているのはもう嫌なんだ。自分の勝手な気持ちだけなんです」  これ以上、不二夫が誰かと心を通わせるのを見ているしかない人生は、きっと耐えられない。  共に過ごす喜びを、愛おしく思う気持ちを、知ってしまったから。 「やっと欲が出たのね」 「欲……?」 「幾度人間に生まれ変わらせても、あなたには自分の欲がなかった。あなたはずっと、あの子がしあわせならそれだけでいいなんて言っていたじゃない? それこそおとぎ話にもならないレベルのファンタジーよ」 「はあ……」 「つまるところ、あなたは人間界でいくら修行をしても、まったく人間を学べてなかったわけ。無慈悲に何度も繰り返させたのは、なにも玉湾様の私欲だけではないのよ」 「確かに」 「自分の大切な人が誰かと添い遂げるのを、穏やかな気持ちで見ていられるバカはいないのよ、人間には」  いちいち正論すぎて、胸が痛い。こんな単純なことに、ずっと目を背けてきた。 「本当よ。気づくまで随分時間を費やしたわね」  でも、自分の思いを吐露できたからか、案外冷静でいられる。これからどんな判定を受けたとしても、甘んじて受け入れる覚悟はできた。 「白、あなたにはしばらく私の手伝いをしてもらいます」 「はい?」  なにを言われたのか全く理解ができなかった。  通常死んだ人間は、死神に案内されて、閻魔のもとにゆくのだから。白臣のわがままなど吹けば飛ぶようなことで、綿綿と裁かれるのみだと思っていたのに。 「判定はないのですか? それに玉湾様だって黙っていないはずです」 「まあ、落ち着いて整理しましょう」  取り乱す白臣を軽くいなすと、花はコホンと咳ばらいをした。 「まず、玉湾様のことだけれど、あの方はあの方であなたを独占したいという私利私欲を働いていたことが、第一閻魔の玉秀様の耳に入っています」  それゆえ今回の人生は玉秀のもとに置かれたのだ。多忙ゆえに見過ごされただけでもなかったらしい。 「よって玉湾様にあなたの処遇についての権限はありません。それから――」  自分の欲を自覚した白は、今まで繰り返してきた人間の人生で、ずっと抑えてきたすべてがぶり返し、長い間苦しむことになるそうだ。 「自覚したのだから、抑えてきた本人には、それがどのくらいの大きさかわかるわよね」 「はい」  やはり、甘い道などないのだ。 「無間地獄に落としたら、責め苦が優先されて、自己の内なる苦しみと向き合えない。だからそれができる環境にいなければならないの」  欲に向き合い、昇華して自己を確立するのが最終目的だそうだ。  要するに自分は、修行においてスタート地点にすら立てていなかったということか。 「もしかしたらあなたにとっては、地獄の責め苦の比にならない苦しさになるかもしれないわね」  覚悟しなさいと活を入れられ、白は深く頭を下げた。
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