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そそくさと売店へ消えていく卿子の後ろ姿を、知己は名残惜しそうに見つめながら呟いた。
「何だろ? 俺、何か変なこと言ったかな?」
「逆」
隣で礼が短く言い切る。
「逆?」
知己が礼の方を覗き込むように聞き返すと
「言わなかったから、ああなっちゃったんですよ。平野さん。私のこと『中位将之の』をつけ忘れて、ただの『妹』って紹介しちゃったでしょ。だから何か誤解したみたい」
「え? 俺、礼ちゃんのこと『妹』って言った?」
「はい。迷わず言ったので、『平野さん、なかなかヤるな!』って私、思いましたもの」
「ヤるって、何を……?
あ、それよりも、すぐに訂正をしなくちゃ」
卿子を追いかけようと売店に足を向けた知己を、礼が腕を掴んで制した。
「ダメですよ。何、言ってんですか。せっかく嘘ついたのに訂正するなんて」
「嘘をついたわけでは……。それに卿子さんに嘘をつきたくない。だから訂正を……」
ぐっと知己の腕を引き寄せて止めると、まるで礼と腕を組むかのようだ。自然と知己の頬に赤みがさす。
「もう、何? 無自覚なの? 面倒だから、この際、『妹』ってことにしておきましょ」
「どうして?」
礼のしたいことが分からない。
「平野さんは、妹じゃない女性を連れ歩いているってあの人に思われたいんですか? お兄さん曰く、今日は私とデートみたいなもんですよ。それをあの人に知られるの、困りません?」
確かに、妹と博物館に居たという方が知己にとっては都合がいい。
(しかし、俺が卿子さん好きって秒でバレているな……)
「でも、礼ちゃんはそれでいいのか?」
礼に悪事の片棒担いでもらったような気になり、申し訳なさそうに知己は聞いた。
「失礼ですが……平野さん。彼女いないでしょ?」
本当に失礼な礼の返事だった。
「なんでそうなる?」
「女心に疎いからです」
「ぐ」
「ついでにいうと恋愛の駆け引きも下手そうにみえました」
「うぐぐ」
知己は何も言い返せなかった。
かつて彼女が居たこともあったが、いずれも長くは続かなかった。忘れていた悲しい記憶が蘇る。
「さ、早く行きましょうよー!」
知己の腕をほどくと、礼はさっさと売店とは逆方向に位置する入場チケット売り場に歩き出していた。
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