慶秀大学海浜研究所 5

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「だって、黒い海はどこまで行ってもまっくら。その暗闇から無数の手が伸びて俺の足を引いたような」  にわかに怪談めいた話になった。 「気のせいだろ。俺は見た。お前、自分の足元に漂わせてた浮き輪に、つんのめって倒れた」  門脇は、家政婦以上に転んだ瞬間を見ていた。 「海の中から手とかありえん。海藻の切れ端を見間違えたか?」  真面目に知己が言うと 「これだから理数系は!」  盛大に菊池が腹を立てていた。 「いいっすか? 家永先生。夜の海は、まるで宇宙……ですよ。夜空も星もすべてが海と溶け合っている」 (海と空の境目が分からないと、ほざいていたな)  と門脇は思い出していた。  そんなことを知らない家永は 「宇宙?」  と、よせばいいのに深堀して訊き返した。 「海に酸素はありませんから。宇宙に例えてみました」  さっき早く風呂に入りたいと喚いていた割には、いまだによく喋る菊池だ。  知己と門脇は真剣に取り合ってくれない。家永ならば真摯に話を聞いてくれると思ってのことだった。  だが家永は 「いや、ある」  とスッパリ否定した。 「は?」  菊池が戸惑っていると 「魚がエラ呼吸している。海に酸素がなかったら、海の生き物は既に死んでいる」  世紀末救世主のように淡々と語った。 (そう言えば、この人。この中で誰よりも理数系だった……!)  菊池が救いを求めた話相手は、誰よりも科学的に話をする男だった。  もはや「俺にエラはないです」と生物学的に反論するよりも、先に感情が立つ。 「これだから理数系は! 科学科学と、ロマンを理解しやがらねえ……っ!」  菊池はキれて、まくし立てた。 「とにかくっ、宇宙の海は俺の海! ブラックホール! すべてを闇の中へいざなう人知を超えた世界ーっ!」 「……菊池君は転んだ時に頭でも打ったのか?」  家永は冷静に門脇と知己に状況を再度尋ねた。 「いや。菊池はやたらと慌ててたけど、母なる海が優しく受け止めてくれた」  門脇が揶揄うように、菊池の言い方を真似た。  「今日の菊池は、なんだかポエムスイッチ入っているらしい」  なんとかフォローしようと知己が言うと 「ポエム……?」  家永は首をひねっていた。 「多分、近藤と海に来た時にロマンチックになれるよう、今、練習しているんじゃねーか?」  門脇が適当に言ったが、どうやらそれは大当たりらしい。菊池が 「うきゃー、それを言うな!」  過剰な反応を見せたので、 (あ。やっぱりそうだったんだ)  と、その場にいる全員が納得した。  
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