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手に持っていた白杖(はくじょう)が突然何かに引っ張られる感覚があり、それと同時に聞こえたのは「バキッ」という音だった。 すぐに状況を察知する。折れたのかもしれない。 恐る恐るしゃがみ込み手で確認をすると、やはり柄の部分が二つに折れている。 後ろからやって来た自転車に乗った人物は、俺が使っていた杖を踏みつけたあと、なにも言わずその場を立ち去ったようだ。 バランスを崩しながらもなんとか転倒は免れたが、命綱とも言えるこの白杖を失い、俺は途方に暮れた。 中途失明をしてもう八年が経過している。 幼少時から目に違和感があり、医師からは『網膜色素変性症(もうまくしきそへんせいしょう)』と診断された。 中学生頃からだんだんとその病気が進行してしまい、大学生になった辺りで社会的失明となった。 いわゆる真っ暗闇の状態ではなく、磨りガラス越しのようにぼんやりと世界が見えている。明るさはわかるが、人の顔などはまったくわからない。 頼るのは周りの音や声、匂い、そしてこの手に持つ白杖の感覚だけだ。 今まで何度もヒヤリとする経験をしてきたが、それでも一人で外出するのをやめないのは自分が健常者と同じ人間であることを感じたいからだ。 何だってできる。どこへだって行ける。 障害者だから、とは言いたくない。 街の音を聞きながら情景を確認する。 自宅はまだまだ先だ。頭の中に描かれた地図を見ながら自分の現在地を知る。 右手には折れた白杖。 これはもう使えない。下手に使うと人に当たってしまう可能性もある。 一人ではどうにもならないと思った俺は意を決して、「すみません」と周りを歩く人に声をかけた。 しかし、俺の側を通る人たちは皆俺の声に耳を傾けようとはしなかった。 わかっている。 世間は善人ばかりではないという事を。 仕方なく、両手で周りを探りながら恐る恐る歩く。壁伝いに歩ければ安心なのだが、ここは歩道の真ん中だろう。 人に手が当たらないように慎重に辺りを探る。 そのとき、俺の前方に誰かがやって来たのを確認した。 「あの……大丈夫ですか?なにか、お手伝いしましょうか?」 若い女性の声だ。表情はまったくわからないが、俺のことを心配してくれているように感じる。 「あ、すみません。僕は視覚障害者なんですが、使っていた杖が折れてしまって。申し訳ないのですが、タクシーを呼んでいただけると助かります」 介助してくれる人に対してはとにかく丁寧にお願いをする。 「タクシーですか、大通りまで行けばタクシーも捕まると思いますが。ちなみに、どちらまで行かれますか?」 「自宅へ帰ろうと思いまして」 「ご自宅ですか。ここからは遠いところですか?」 「あ、いえ、ここからはさほど遠くはないんですが」 「そうなんですか。じゃあ、よろしければ私が案内しましょうか?」 「え、いや、それはご迷惑ですし」 「そんなことないですよ。私、急いでませんから。今日は仕事も休みでこの辺りを散歩していたんです」 警戒しながらも、この人なら安心できるかもしれないと思った俺は「では、お言葉に甘えて、お願いします」と彼女に伝えた。 「了解です。じゃあ、私の肩に掴まってください。ゆっくり歩きますよ」 彼女の華奢な左肩に掴まりながら歩みを進める。170センチ程ある俺の身長よりも少し低いだろうか。風に揺られるように甘い柔軟剤の香りが鼻先をかすめた。 彼女は自分の名前を『白石』だと名乗った。わかりやすく漢字の説明付きで。俺も『黒木』だと答える。 「わあ、奇遇ですね。白と黒だ。すごい。ふふふふ」 白石さんは楽しそうに笑う。 顔がわからなくても、なぜか美人だという気がした。 「あ、三時の方角から車が来ます。一度止まりますね」 それにしても、彼女の対応は視覚障害者に慣れているように思える。 「あの、もしかして身近に視覚障害者の方がいらっしゃった経験があったりしますか?」 「あ、はい。亡くなった私の父が黒木さんと同じ障害者でした。まだ私が小さかったころからずっとだったので」 「そうだったんですね。通りで丁寧だなと思いました」 彼女がゆっくりと歩き始める。それに従う俺。 「障害の方を見るとなにか役に立ちたいって思っているんです。父を助けられなかったという悔しい思いがずっと自分の中にあって。 実は私、視覚について研究している研究者なんです」 「へぇ、それは凄いですね。視覚についてというのは具体的には?」 「私が研究しているのは、視覚を失った人を救うための装置の開発です。 健常者が見ている景色を障害のある人にも 見せてあげられるように日々開発に取り組んでいるんです」 「へぇー、それは夢のような装置ですね。 そんなものがあるのならば、俺も付けてみたいなぁ」 「本当ですか!」 急に立ち止まってこちらを見る彼女。声の大きさでそれがわかる。 「実は、その装置は完成間近なんですが、体験できる障害者の方を探していたんです。 健常者による実験では正確なデータを取れなくて。黒木さんさえよければ、そのモニターになってもらえませんか?」 俺は少し胸騒ぎを感じた。 さっき会ったばかりの人にこんな話を聞かされて、確かに魅力的な内容ではあったが彼女を信用するのはいかがなものか。 「……うーん、でもそれって簡単なんですか?大がかりな手術とかは受けられないし」 「もちろん簡単です。メガネのようなものと、カチューシャみたいなものを頭に付けるだけなんです」 「いや、でも、どうだろう。白石さんとは今会ったばかりだし」 「そうですよね。ごめんなさい。私ってこういうとこあるんです。勝手に話を進めちゃうっていう癖。本当にごめんなさい」 彼女が必死に謝る姿が目に浮かぶ。 鼻声になっているのは気のせいではないのかもしれない。 「いや、そんなに謝ることじゃないですよ。 じゃあ、わかりました。一度話だけ聞いてみますよ。それから決めてもいいでしょう?」 女性の泣き顔に弱いのは失明をした今でも変わらない。 「本当ですか!ありがとうございます」 彼女は俺を自宅まで案内した。 一人暮らしをしている俺の家は市内のマンションだ。盲目でも一人暮らしはできる。 白石さんと連絡先を交換し、彼女と別れた。 去り際に、「あ、私が黒木さんに声をかけたのはこのためなんかじゃないですから。 本当に困っている姿を見て手助けしたいと思ったんです」と言った。 俺は、「うん。わかってる。ありがとう」と声を返した。 それから、彼女とは何度か会って研究所や装置についての話をした。 彼女の話を聞くにつれ、俺の中で鮮明な景色を見たいという欲求がだんだんと高まっていく。 そして、俺は決断した。
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