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目が覚めたら時計の針は九時を指していた。
はあと溜息を一つ。一限はもう始まっている。仕方がない、二限から出るか。今日一限なんだっけ、熱力学だったかなあ。もうすぐ後期の試験だし出た方がいいだろうけど、もう、今日はいいや。
温かい布団にくるまっていたいけど、でも支度しないと。布団から出たら、慣れた寒さにふるえた。フローリングの床が冷たい。
顔を洗って、歯を磨いて、着替えて、メイク道具に手をのばす。鏡に映った自分の姿。不思議。寝坊して、遅刻して、なんなら一限はサボるのに、どうしてわたしはこんなに落ち着いているんだろう。高校までは、寝坊したら焦って、大慌てで家を飛び出していたのに。あの義務感は何だったんだろう。今のこの余裕は何なのだろう。大学に入ってからの二年で、寝坊も遅刻も罪悪感が薄れて、要領の良さと器用さが身についた。
下地をぬって、ファンデーションを重ねて、まつ毛を上げて、それから、それから。きれいになっていくのは好き。かわいくなるのも好き。誰のためでもない、自分が満足するための手段。パッとしない薄っぺらな姿が見えないように。
髪はヘアアイロンで巻いておく。染めたからちょっと茶色。似合うねってあの人が言ってくれた茶色。
ふと、黒髪の彼女がうかんだ。キュッと胸の前で右手を握る。江見優。きれいなストレートの黒髪は、一度も染めたことがないと言っていた。毛が細くてやわらかくて、きれい。優さんには本当に似合っている。凛としていて、それでいてどこか浮世離れした雰囲気のある優さんには、黒もストレートも似合う。
そういえば、優さんってあんまりお化粧しないよね。髪もいじってないし、爪も塗っていない。十分かわいいんだけど、コスメとかファッションとかあんまり興味なさそう。そういうところが、ちょっと不思議。これまでわたしの周りにいた女の子は、みんなある程度そういうものが好きで、かわいいとか、きれいとか、そういうところにこだわりがあったから。優さんはどこか達観した雰囲気があって、でもそれが嫌味だとも怖いとも感じない。似合っているんだ、やっぱり。優さんってすごくきちんとしているから。遅刻したところなんて見たことがないし、サボりなんてしないだろうな。ズルいこともできない人だろうな。
カラン、と音がした。見れば、何の拍子だったのだろう、引っかけて飾っていたイヤリングが、一つ、床に落ちていた。
「早くしなきゃ」
二限には間に合うように、わたしは支度をすませて家を出た。
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