tear

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 結論から言えば、優さんとの「おつきあい」は難航した。理由は簡単で、某新型ウイルス感染症が流行したから。外出自粛が叫ばれて、落ち着かない春休みを実家で過ごし、かと思ったら緊急事態宣言で、進級もそこそこに大学の授業はオンライン化。出かけるのも憚られ、直接顔を合わせることすらためらわれた。恋人らしいことはあまりできていない。  それでもオンライン上でのやりとりは積極的にした。理由はどうであれ、優さんと仲良くできるなら、と思った。オンライン授業の参加者欄では必ず名前を探したし、通話をすることも、一緒にゲームをすることもあった。  一応、成り行きとはいえ高校時代に同級生とつきあっていたわたしは、そのときのことを話した。  優さんはどんなことでも興味深そうな反応を返してくれた。つきあいはじめたきっかけから、別れ話まで。「この人本当に恋愛に疎いんだ」って思ったけれど、でも、嫌な気持ちはしなくて。優さんは恋心なんて俗な感情とは縁がないんじゃないかって思った。どこか浮世離れした彼女を、わたしはカッコ良いと思った。優さんがわたしを恋愛対象として見ていなくても、それでも好きだった。  この不思議な「おつきあい」の原因、文芸サークルの部誌。でも、もともと販売を予定していた学際の中止が決まった。原稿の締め切りも宙ぶらりん、と優さんは笑っていた。  ようやくオンライン授業にも新しい生活様式にも慣れ始めた頃、意を決して、「流行らしいからオンラインでデートしてみない?」と提案したら、優さんはあっさり了承してくれた。  待ち合わせ時刻は午後九時。何か飲みながら話そう、という約束だった。ちなみに、同じものを飲もうと提案したら、優さんがお酒を飲まないと判明。初耳だった。  ということで、準備したのは優さんご指定のぶどうソーダである。  「久しぶり」 画面上に優さんが映った。シンプルな白のトップスに淡い緑のカーディガン。画面越しでもきれいな黒髪。 「久しぶり」 わたしは白地にピンクの花柄ワンピース。派手すぎないか心配だったメイクも、画面上では大丈夫そうで安心する。 「とりあえず乾杯しよ」 「了解」 わたしのグラスにも、画面の向こうの優さんのグラスにも、きれいな紫色が注がれる。 「じゃあ姫島、乾杯の音頭とって」 「はーい。では、祝、初デートということで。乾杯」 「乾杯」 ちょっとだけグラスをカメラに近づける。音も何もないけれど楽しかった。 「わ、ぶどう濃いね、おいしい」 「でしょう?」 「お酒飲まないんだね、知らなかった」 「言ってなかった? あんまりおいしさがわからなくて」 「全然いいと思うよ」  二十歳になったから飲む、じゃなくて、おいしさがわからないから飲まない、というのが優さんらしい。 「そうだ姫島、オンラインでデートって何するの?下調べはしてきたけど」 「真面目だねえ、何かやりたいことある?」  わたしがそう尋ねると優さんはちょっと考えるしぐさをする。 「調べたなかだと、インターネット上の地図使ってさ、どこか旅行するとか、出身地の近辺見て回るとか、やってみたい」 「いいよー」 「ちなみに、出身はどこなの?」  そういえばお互い出身地を知らなかった。そっか、わたしはまだまだ優さんのことを知らないんだ。  ソーダとお菓子を片手に話をして、あちこちの景色を飛び回って、気づいたら時刻は零時に迫っていた。そろそろ寝ようか、と言ったところで、優さんが思い出したように、今更なんだけど、と言った。 「私、姫島のこと姫島って呼ぶじゃない」 「うん」 「恋人って名前で呼ぶんじゃないかと思って。で、初めて名前で呼ぶときに、とってもドキドキする、みたいな感情があるのかな、と思ったんだけれど、実際のところどうなの?」 どうなの? と首をかしげる優さんには恥とか照れとかは感じられない。 「んっと、ドキドキはするよ。つきあいはじめるときに呼び方は決めたいかな、わたしはね。いざ呼びかけるときにどうしたらいいかわかんなくて、変に思われたらとか意識してドキドキする」 へえ、と面白そうに優さんが相槌をうつ。  「じゃあ、香穂」 「ふぇ?」 変な声が出た。くすくすと画面の向こうの優さんが笑う。 「ほら、私が呼んだんだから、香穂も」 ドクンと聞こえないはずの心臓の音が聞こえた気がした。カアッと頬が熱くなるのを感じた。 「えと、」 優さん、そう、優さん。あれ、そういえばわたし、優さんに面と向かって優さんって呼んだこと、なくない?  そう意識したら余計にドキドキした。  「優さん」  やっと出た声は小さくて、聞こえなかったかなと思った。空になったグラスから視線を上げられなかった。 「さんづけなの?」 どうやら聞こえていたらしい。 「同い年で同期だから敬称なくていいのに。それに私、名字で呼びすてされること多いから、下の名前にさんづけは新鮮かも」 何だか残念そうな声色の気がして、江見、優、優ちゃん、と口の中で呟いて、でも、違うなと思った。  「優さんは優さんだよ、江見でも、優でも、優ちゃんでも、ない」 どうしてかな、あなたのことは、さんづけで呼びたい。まっすぐな姿勢のあなたのことは、さんづけで呼びたい。  なら、優さんでいいよ、と彼女は笑った。おもしろいね香穂は、と楽しそうだった。  「今日はありがとう、楽しかった」 優さんが笑う。 「小説のネタになる?」 「そうだね、するよ」  そう言ってから、優さんはまっすぐこちらを見た。
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