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大人になれば普通に結婚していると思っていた。
都内に一軒家を構え奥さんと子供が二人。
綺麗で料理も上手な自慢の奥さん、元気が有り余った息子たち、ついでに白い犬を飼っていて。
長男と次男は野球が好きで、たまの休みの日にはキャッチボール。『お父さん下手くそぉー』なんて言われたりして。
「どうしたんすか、南さん?手止まってますよ」
「ん?あぁ、ちょっと考え事しててな」
急に声をかけられて、輪郭のぼやけた温かい世界が真っ暗なオフィスに飲み込まれる。
「まぁ、いいすけど。ぼーっとしてたら仕事おわんないすよ」
北島は首を捻って再び自分の作業に戻っていった。
俺は頭を切り替えるため、とっくの昔に冷え切ったコーヒーを流し込んだ。香りもコクも暖かみもなくてまずい。
俺はとりあえず手を動かし始めた。
やってもキリがない仕事の山が目の前のパソコンに詰まっているが、座っているだけじゃ仕事は終わらない。せめて朝までにはもう少し減らさないと。
顧客の無茶振りに応えるのが今の俺の役割。社会の歯車の一部分であって昔憧れていた『大人』にはなれていない。
デスクトップの時刻表示が目に入る。深夜2時を回ったあたり。
これで今月何時間目のサービス残業かと計算しそうになったが、やめた。そんなこともうどうだっていい。ここでやらなきゃ明日の俺が苦しむのは目に見えている。会社のためでも、顧客のためでも、エンドユーザーのためでもない、明日の自分のために俺はやるんだ。
深夜のオフィスにはずっとキーボードの音だけが響いていた。
「……っしゃ」
吐息のような北島の声が後ろから聞こえた。
キーボード以外の音に久しぶりに触れたような気がして時計を見るとあれから2時間経っていた。
「なに北島、終わったの?」
そう言いながら振り向くと、得意げな顔で伸びをしていた北島と目があった。
「いや、終わってはないんすけど目処立つとこまで来たって感じっす。南さんはどうすか?」
「お察しの通りおわんねぇよ」
立ち上がって頭を後ろにそらすと首からポキポキと乾いた音が鳴って気持ちいい。この気持ち良さにかまけて何もかも投げ出してしまいたい。
「これ終わったらそっち入りますよ。明日……ていうか今日か。二人でやったら今日中には終わりますって」
「いやだってお前、休みじゃねぇかよ」
「それは南さんもでしょ。今度昼奢ってください」
北島は俺より六つ下の若造で、たまに生意気でさぼりがちな時もあるけど、それでいてとてもいい奴だ。
「よしっ、休み潰した分大盛りまでは許してやるよ」
「牛丼かい。もうちょっといいもん奢ってくださいよ」
「バカ言え。安月給に期待なんかしてんじゃねぇよ」
「違いねぇっすわ。まーじで金たまんないんすよね、この会社。俺貯金ほとんどないっすよ」
「お前は趣味に使いすぎだよ」
北島はNBA観戦が趣味で、大学生の頃はアメリカまで試合を見に行ったほど。グッズも欲しくなるらしく毎月の出費が半端じゃないらしい。
「たかがカードに何万も出してんじゃねぇよ」
「だぁってー、推しチームの選手だったら欲しくなりません?その選手もうすぐ引退だからめっちゃ希少だし……」
「俺は目の前の諭吉の方が希少だと思う」
「いやぁー、南さんわかってないなぁー。わかりません?この欲しいって気持ちが抑えられない感じとか。南さんも熱中してる趣味とかないんすか?」
「趣味、趣味なぁ……」
お互い手は止めずに無駄話に花を咲かせる。
明け方四時、まだ明るくなる気配はない。
「……特にねぇな」
「えー、なんすかそれ。趣味あった方がいいっすよ。休みの日とか寂しくないすか?」
「うるせぇほっとけ。てかそれ検証終わってねぇか」
「あ、ほんとだ。んじゃこれあとちょっとなんで俺に振る分用意しといてください」
あいよと返事をして俺はコーヒーを飲み干した。
結局その日は一日中仕事をしていた。
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