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モラルと思いやりのバレンタイン
陽の家の玄関前。雲雀は一度、深呼吸をして、インターフォンを押した。
駆け寄ってくる小さな足音の後、静かな音を立てて、ひっそりと扉が開く。
「……いらっしゃい」
可愛らしい小さな顔を覗かせたのは妖精ではなく、幼馴染の陽だ。今は、雲雀の恋人でもある。
紆余曲折の末、幼馴染という二人の関係に恋人が追記されて初めてのバレンタインだった。
雲雀は生まれてからこれまで、たくさんのチョコを捧げられてきたが、今日この日ほど心弾んだ日はない。大本命の陽が楽しそうに『楽しみにしててね』とニコニコ微笑んでいたから、尚更だ。
昼食後、陽が『準備ができたら呼ぶからね!』と自分の家に帰っていってから数時間、ただひたすらに大人しく待っていた。
いったい何を作ってくれているのだろうか? クッキーか、ケーキか、チョコを溶かして固めているのか。
連絡がなかなか来ないので、心配はしていた。陽は料理があまり得意じゃないから、怪我でもしているんじゃないかと、何度も何度も見に行こうとしたが、『待っててね』という陽の言葉に律儀に従って待っていたところ、ようやく連絡が来たのだ。
陽に続いて、階段を登っていく。
キッチンではなく、部屋に運んだのか、と考えながら、陽を見るが、怪我はしていないようだ。白い肌に火傷でもしていたらどうしようかと心配で堪らなかったが、雲雀はホッと胸を撫で下ろした。
強いていうなら、家に帰る前の楽しそうな表情が一転して、少し悲しげに俯いてしまっていることが気になる。
もしかしたら、失敗してしまったのだろうか。陽は大人しそうな外見に反して、好奇心が旺盛で何事にも挑戦する気持ちを忘れないので、料理でよく失敗をした。よく「美味しくなると思った」「いける気がした」などの供述を繰り返している。
もし、そうだったとしたら、抱きしめて、大丈夫だよ、と安心させてあげなくてはならない。
陽がバレンタインの準備をする、と聞いてから、とっくに覚悟は済んでいる。雲雀は黒焦げの物資を出されようが、クッキーなのかモンスターなのかわからない物体を出されようが、必ずや命に変えても食べ切ってみせると決意していた。
だが、今目の前にあるこれは、予想から大きく外れていた。
「……えーっと、これは?」
「……」
陽の部屋の真ん中。二人で向かい合って正座したところで、陽から差し出されたものに、雲雀は首を傾げた。
幅が広く長い、赤いリボンだ。
それが、何をどうしてこうなってしまったのか、うねうねと絡まり、くしゃりと丸まっていた。
陽に目を向けると、しょんぼりと項垂れて、眉がいつもより垂れ下がってしまっている。雲雀にはどういうことか分からなかった。指先で摘んで、「リボン?」と聞くと小さくか弱い声で「そう」と答えてくれる。
「自分で準備したかったんだけど、うまくいかなくて……雲雀に手伝って欲しいの……」
「う、うん。もちろん。これがラッピング用ってこと? お菓子はキッチン?」
「ううん、お菓子じゃない」
「え?」
陽の丸くて小さな頭がふるふる、と横に振られる。さらさらと細っこい髪の毛も一緒に揺れる。
雲雀はますます首を傾げた。どういうこと? と視線で促すと、陽は小さな桜色の唇から、ポツリ、ポツリと呟き始める。
「付き合って初めてのバレンタインだからね、いっぱい考えたの。雲雀に喜んで欲しくて」
「あ、ああ。ありがとう」
「雲雀って、いつもたくさんチョコもらうでしょ? プレゼントもいっぱいで、いろんなもの貰ってるから、普通のじゃ物足りないかな、って思ったの」
「陽からもらったものならなんでも嬉しいよ?」
「うん……」
雲雀の言葉に頷くと、陽はようやく少しだけ笑みを見せた。
「雲雀ならそう言ってくれると思ったんだけど、やっぱり、今まで一番すごくて、驚くようなものにしたいと思ってね、考えたの。雲雀の一番好きなもの」
「うん」
「おれだな! って」
「おう」
陽が自信を持って言い切ったので、雲雀は深く深く頷いた。自信に満ちた陽の表情が雲雀にはあまりに尊く、胸にじいんと響く。これは陽が雲雀に愛されていると感じている、そして雲雀の愛に何に疑問も不満も持っていないということだ。愛が伝わっていなければこんな発言は出てこない。陽の自信は、雲雀の自信にもなる。
「そうだよ。俺が一番好きなのは陽だ。だから何を貰っても嬉し」
「だからおれをプレゼントしようと思ったの!」
「い……んんっ? おお? そっかー? なるほどなー?」
動揺のあまり体が大きく震えたが、無理矢理押さえ込んで平静を装う。何がなるほど? と自分に問いたい。
陽は俯き気味だった顔を上げて、大きな目をキラキラと輝かせている。少し元気が出てきたようだ。
「そんでね、茶々丸くんに聞いたら『裸にリボン巻いて「プレゼントはおれ♡」ってやれば? 喜ぶんじゃないっすか?』って教えてくれてね、それだ! って」
「ははは、茶々丸は面白いなぁ」
「面白いよねぇ」
陽はニコニコ笑っている。雲雀はホッとしたが、茶々丸の野郎、適当に答えたな、と漲る殺意を笑顔で隠す。陽が本気にするから軽口やめろとあんなに言ったのに。まだわからないのか。
とりあえず、と咳払いして雲雀はリボンを示した。
「それでこれを用意したんだ?」
「うん。巻こうと思って。でも、うまくできなくて、絡まっちゃった」
「そうだなー。仕方ないなー。今回は諦め」
「仕方ないから、雲雀に解いて貰おうと思って、呼んじゃった」
「んん、あ、そっかー」
今回は諦めて、チョコ買いに行こう、と話を逸らそうとしたが叶わなかった。
何という不屈の精神だろう。こんなに華奢で繊細で愛らしいのに。そんなところももちろん好きだ。
けれど雲雀は何とか話を変えようとする。
「でもさ、うまく巻けなかったんだろ?」
「うん」
「じゃあやっぱり他の」
「でも、雲雀ならできるでしょ?」
「……ん?」
雲雀が首を傾げると、陽はにこりと微笑んで雲雀を見つめた。
「雲雀がリボン解いて、おれのこと縛って?」
雲雀は陽に向けた優しい笑みのまま固まって、黙り込んだ。
それから、ゆっくりと息を吐いて、また吸い込む。
「……とりあえずこれは解くから。……ちょっと待ってくれる?」
「うん!」
陽が花のように微笑んで、雲雀の手元を見つめている。雲雀はゆっくりリボンを解き始めた。リボンを解くことよりも、自分の心を整理する時間が欲しくて、作業に集中する。
神からの試練だ、と雲雀は受け取った。
陽への愛が試されているに違いない、と己に言い聞かせる。
裸にリボン。雲雀は決して、見たくないわけではない。
陽の白い柔肌に、細い腰に、平たい胸に、小さなお尻に、少しふにっとしている太腿に、リボンが巻き付いて、少し締め付ける。赤いリボンは白い肌にさぞかし映えるだろう。
雲雀だって、好きな子の裸にリボンを巻いてみたいかどうかと聞かれたら、興味がないとは言い切れない。
でも、だめだ、と雲雀は己の好奇心を滅多刺しにした。
今は二月だ。部屋は適温になるように暖めているとはいえ、陽を裸にして、しかも、しばらくそのままにするなんて考えられない。風邪でも引いてしまったら、苦しむのは陽だ。そんなことがあっていいはずがない。
リボンを巻くのだってそうだ。こうして触ってみると、リボンの表面はサテンの生地なのか、滑らかで光沢がある。けれど、端はざり、と指先に引っかかる。これが、陽の白くて柔らかで弱い肌ならどうなるか、想像するのは容易だ。擦れて、赤くなってしまうに違いない。あの綺麗な白い肌に、跡が残ったらどうする。大好きなお風呂に入る時に滲みたら、可哀想じゃないか。
だめだ。絶対だめだ。裸にリボンがどんなに魅力的であっても、許さない。茶々丸、提案したお前もだ。
雲雀の心が決まった時、絡まっていたリボンは綺麗に解けていた。
「ありがと、雲雀」
陽が早速服を脱ごうと裾を捲る。雲雀はそっと制止して、捲った裾は綺麗に戻してあげた。陽はキョトン、として首を傾げている。
「ひばり?」
「脱がなくていい、このままで」
雲雀はリボンを陽の頭の後ろから通し、頭の上でキュッとリボン結びにした。陽の頭は小さくて、大きなリボンがより際立っている。
「ほら、可愛いよ」
「……裸じゃないのに?」
「裸にならなくてもそのままで陽は可愛いよ」
「でも……」
「裸になったら風邪引いちゃうし、リボンも擦れたらお風呂で滲みるよ。いやだろ?」
陽は小さく頷いたが、不安そうに雲雀を見上げた。
「雲雀はいいの? これだと、いつものおれだよ?」
「俺はいつもの陽が好きだよ」
「雲雀……」
陽の瞳が潤んだかと思うと、雲雀にぎゅっと抱きついてきた。応えるように華奢な体を抱きしめると、顔を上げた陽が花咲くように笑った。
「おれもいつもの雲雀が一番好き!」
「ありがとな。じゃあ一緒にチョコ買いに行こっか」
「うん!」
着替えるね、と立ち上がった陽を見て、雲雀は胸を撫で下ろす。
勝った。愛の試練に打ち勝ったと、心の中で拳をぐっ、と握った。
雲雀は陽を大事にしていたし、純粋無垢な陽が怖がったり傷ついたりしないように、ゆっくり関係を深めていこうと決めていた。
だから、これでいいんだ。
裸にリボンは興味深いが、陽にはまだ早い。
雲雀が陽が服を選んでいるのを眺めていると、陽が「あ」と何かに気づいて雲雀の側にしゃがみ込む。
「ひばり、あのね」
「ん?」
口元に手を添えて、雲雀の耳に寄せる。雲雀も陽の方へ耳を傾けると、小さな声で囁いた。
「今日ね、親帰ってこないんだぁ」
だから一緒に夜更かししよ、泊まっていって。と陽が微笑む。
すぐに陽は立ち上がると何事もなかったようにまた服を選び始めた。
楽しい夜更かしを想像してご機嫌な陽に対して、雲雀は再び荒れ狂う己の煩悩と戦っていた。
今日は長い、試練の日になるかもしれない。
そんな予感に、雲雀は静かにため息をついた。
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