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1.その女、島崎朔太郎
京の町が物騒になったと言われて数年が経った。
人々は、怖い怖いと言いながらも逃げ出すわけではなく、諦めたように、それでも暗くなりすぎることもなく、日々を営んでいた。町には活気があり、往来には元気な挨拶や会話が飛び交っている。
その中を、ひとりの女が歩いていた。数歩先には、二本差しの男。女は少し小走りになって、声をかけた。
「お武家さま、落とさはりましたえ」
と、手ぬぐいを男に差し出した。
「なんや? わてのもんやないで」
男は怪訝そうな顔で女を見た。
「ほんまどすか? いややわあ、見間違えてしもた。そやったらほんまの落とし主はんどこ行ったんやろ。あっ」
女は、何かに気づいたように手ぬぐいに目をやった。手ぬぐいの端には文字が染め抜かれていた。
「なんやこの手ぬぐい、川辺のとこにある加茂屋さんのやわ。届けはったらええんやけど、少ぉし遠いわなあ」
女は困ったような顔をして男を見た。男も困ったなあ、と言わんばかりに頬を掻いたがやがて「わてに貸しや」と手を出した。
「今、加茂屋に泊まっとるんや。わてが届けたる」
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