君とちょこれいと

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ある時を堺に私はチョコレイトを嫌いになった。 それまでは毎日のように欠かさず食べていた。 生活に欠かせない嗜好品は、いつの間にか食べない期間の方が長くなり、知らず識らずのうちに遠ざけている。 思い返せば、些細な出来事だったと思う。 どうして嫌いになったのか、そんな理由も今となってはどうでもよくなっている。 今更食べる気にもならず、会社でも適当に理由をつけて断っていた。 これでいいのだ。 チョコレイトが食べられないくらいで、人生が終わったりしない。 意外とチョコレイトを食べなくても生きていけることは分かったし、避けることもできる。 小首をかしげられることはあるが、無理に食べさせようとする人はいない。 チョコレイトを食べないことこそ、アイデンティティなのだ。 そう誇れるくらい、私の中では重要なことである。 ただ今になって問題が起き始めている。 それは同居中の彼女がチョコレイト中毒だということだ。 誰が食べていようと趣向なのだし、気にならなかった。 しかし彼女があまりにも美味しそうに食べるものだから、気になって仕方がない。 しかも大手メーカーの板チョコから、王室御用達の高級チョコレイトまで多種に渡ってストックされている。 見た目も惑星をモチーフにした美しいものから、地味なアーモンドチョコレイト、パッケージが可愛いアルコール入りのものまであり、好奇心をくすぐられてしまう。 そんな彼女は、私がチョコレイトを苦手なことを理解しているか、強要はしてこない。 ただ「もったいない」の一言だけ、寂しそうにつぶやく。 その悄然漂う言い回しにいつも心を締めつけられる。 彼女のことは好きである。 こんなにも愛おしい人が、この先現れるとは思っていない。 守ってあげたい。 どうか傷ついて欲しくない。 願わくば、常に傍らで笑っていてほしい。 それなのに私は彼女を傷つけているのかもしれない。 時に押し寄せる感傷の波は、どうにも私を罪深くさせていく。 バレンタイン当日、彼女はチョコレイトを変わらず食べている。 それは限定品でなかなか手に入らないものだと教えてくれた。 相変わらず満足げな顔をして、シャンパンと共に楽しんでいる。 当然のように私もシャンパンを飲んでいるが、チョコレイトには手をつけていない。 キューブ状になったそれは、華美な装飾はなく、ただ品のある香りだけを漂わせていた。 チョコレイトを食べてみようか。 そう思っては見たものの、長年培われてきたアイデンティティは容易には壊すことはできない。 チョコレイトを眺めていると彼女の視線がこちらに向く。 「ひとつ、食べない?」 「……食べる」 彼女の悲しい表情を見たくなくて、ついうなずいてしまう。 若干の後悔が脳裏を過る。 そっと口に放り込まれたチョコレイトは、舌の上で形を変えていく。 芳醇なカカオの香りとさっぱりとした甘みと苦み、なめらかな舌触りは新たな世界を開きだす。 「美味しいでしょ?」 嬉々とした表情を浮かべながら、彼女は眺めている。 私の大好きなあどけない表情を浮かべながら、まるで子猫のように返事を待っている。 「美味しい」 そういってシャンパンで流し込んだ。 久しぶりのチョコレイトは、一瞬で歳月を超過していった。 その重厚感は、アイデンティティを喪失させていく。 私が私である理由。 チョコレイトにはそれが大いに含まれていたはずで、それを大切に守ってきた。 それがいとも簡単に壊されてしまった。 自分で選択したはずだった。 それなのに混乱している感情は、パズルのピースが欠けてしまったように穴があき、バランスを失っている。 どうしたらいい。 彼女は変わらず感嘆の笑みを浮かべながら、チョコレイトを口にしている。 彼女の笑顔が嬉しいはずなのにどこかで憂いを感じている。 「……もしかして、食べたこと後悔してるの?」 「どうしたらいいか、分からないだけ」 もしかしたら、アイデンティティを喪失させたのは彼女なのかもしれない。 それならいい。 彼女が望むのならば、失ってもかまわない。 彼女が笑っていてくれれば、それだけで私は幸せである。 チョコレイトを食べるのは彼女の前だけ。 そう心に決めて、もう一粒、チョコレイトに手を伸ばした。
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