１　診察室

昭和6年10月31日東京荏原郡奥沢(現世田谷区奥沢) 有福内科医院擦りガラスのむこうを輪郭のぼやけた女の影が二つすうっと通リ過ぎ診察室のドアが開くと看護婦が顔をのぞかせた。健康そうな丸顔は紅潮し瞳にみなぎる光は若い好奇心を隠せない。「先生、佐々木さんがお見えになりました」「どうぞ、入って下さい」すぐにすらりと背の高い女が腰をこごめて入ってきた。佐々木カネヨ、通称「お葉さん」は視線を落としたまま深々と、少し斜(はす)に、お辞儀をした。彼女が顔を上げた瞬間何か、診察室全体の空気が変わった有福先生にはそう感じられた。額の真ん中で分けた髪は流行りの「女優髷」というような大げさな型ではなく洋髪とも日本髪ともつかない鬢も額髪も作らない無造作な結い方で強いて言えば西洋画の古代の女神のようだった。簪(かんざし)１つ飾っていないがそれがかえって彼女のうりざねに整った輪郭を際立たせている。後ろ手に、するりと海老茶の羽織をすべり落とし手首にそれを巻き付けるようにして彼女は先生と向かい合った丸椅子に腰掛けた。濃紺に牡丹雪の舞うような、大きな絣模様スミレ色のレースの半襟首の色がこっくりと白く夜目に雪を見るようだ。この女の身上書に秋田の生まれとあったら何から何まで雪を連想したのか先生は、ふと、そんなことを思った。白いは白いでも東京の女の肌は水に溶いた乳のような薄情な感じの白さだが、お葉の肌はどっしり積もった雪のようなどこか逞しい、土俗の白さだと感じた。　

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