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参
また、昨日と同じ時がやって来た。人間たちのざわめきが、遠くにひしめいている。生憎、今日は薄曇り。しかし、雲に煙る朧月というのも風情がある、とのっぺらぼうは思った。
だが、月から目を離した瞬間、のっぺらぼうは急に自嘲的になった。笑いがこぼれる。
結局、今日も自分は、人気のない雑木林に一人でいる。昔を思い出しては、今更ながらに後悔の念が強くなった。
のっぺらぼうであるこの姿は、本来の姿ではない。のっぺらぼうの本来の姿は狐、稲荷神社の祭神である白狐に従う野狐だ。あまり力は強くなく、もともと同族とは合わないところがあった。変化の術に姿を隠す術、それに人を惑わす幻術も、あらゆる術がとにかく下手くそで、人を化かすこともままならない。けれども、のっぺらぼうはそれでいいと思っていた。人間を驚かすことが、嫌いだったから。できないから嫌いだったのかもしれないが、とにかく人を脅かす存在であることを、のっぺらぼうは好まなかった。それよりも、人が楽しそうにしている姿を見ている方が好きだ。
特に子供がはしゃぐ姿が大好きだった。だから、秋祭りの見物は、のっぺらぼうにとって至福の時であった。祭りに来る子供たちは皆、目を輝かせて楽しそうに笑う。
他の野狐や別の妖怪たちからしてみれば、のっぺらぼうは明らかに異端であり、常に揶揄いの的であった。
そしてある時、力がないことを、習性ともいえる人を化かす行為が嫌いなことを馬鹿にされて、のっぺらぼうはひどく頭に来てしまった。それまでもさんざん嫌味を言われていたから、それがずっと腹の底に溜まっていたのだ。感情的な言い合いの末、むきになって「変化の術くらいできる!」と叫び、顔のない人間に化けた。そうしたら、もとの姿に戻れなくなった。正確に言うと、あらゆる術が使えなくなったのだ。
何故、こんなことになったのか。その理由は、のっぺらぼう自身にもよく分からない。おそらく身に余る術を使ってしまったからだとは思うが、意固地になった自分への罰のようにも思えた。
この状態から脱するには、どうすればいいのか。罰だというなら、いつ罰は終わるのか。のっぺらぼうが白狐に尋ねたところ、曰く「時が経てば解決する」だった。納得できる答えではなかったが、それ以上の助言は貰えなかった。
それから、のっぺらぼうは独りでいることが多くなった。以前にも増して揶揄われるようになったため、同族や他の妖怪たちとも疎遠になった。このままだと、揶揄われることすらなくなるに違いない。
大好きな秋祭りに行くこともやめた。
あやかしではあるから、ほとんどの人間に存在が気づかれることはない。ただ、そのほとんどに当てはまらない人間―主に子供だが―に、こののっぺらぼうの姿を見られたらどうなるか。怖がらせてしまうに決まっている。
秋祭りには、たくさんの子供たちがやって来る。彼らは、おいしそうに屋台の食べ物を頬張り、射的や輪投げなどの遊びを楽しむ。そうやって、たくさん笑顔を咲かせる。
特別な悦ばしい一時を、のっぺらぼうは壊したくなかった。姿を隠すことができればよかったが、そんな術は使えない。
寂しくないと言えば嘘だ。実際に、誰かにそう言ったことはないけれど。だが、どうすればいいか答えは見つからず、結局独りでいることを受け入れるしかなかった。いや、受け入れられてはいない。
そうして、情けなさや悔しさ寂しさなど、いろいろな思いを抱えたまま、のっぺらぼうになってもう二十年は過ぎただろうか。まだ、もとの姿には戻れない。姿を隠すこともできない。その他の術も使えない。いっそこのまま、のっぺらぼうとして生きてゆくのも手のように思うが、そう開き直ることもできない。独りでこじらせてしまった感情は、そう簡単にほぐれなかった。
のっぺらぼうは、ため息を吐いた。やっぱり自分は意固地だと思った。
祭りを見に行けばいい。嫌味を言われたって気にしなければいい。子供に見られたくないのであれば、人の目に触れないところから、見物すればいいだけの話。もう少し神社に近づくことは、十分可能だ。
それなのに、のっぺらぼうは林の奥にいる。祭りの明るさは、のっぺらぼうには眩しすぎた。
優雅な、けれども昨日のものより少したどたどしい、笛の音が聞こえてきた。今宵も、神楽の時間がやって来た。確か今日は、子供神楽のはずだ。
ふと、のっぺらぼうは、昨日出会った少女の姿を思い出した。右手を眺める。握った手はとても小さくて、柔らかかった。無邪気な笑顔を見たのは、本当に久しぶりだった。
のっぺらぼうは、一つ深呼吸をした。少しばかり、心が穏やかになった気がする。せめて神楽の音だけでも楽しもうと、息を潜めて一心に笛の音を拾う。
ところがである。聞こえてきたのは、小気味よい足音だった。のっぺらぼうが振り返ると、同時に木陰から小さな人影が飛び出した。闇間に見える、ほのかな人影。おさげを垂らし、浴衣を着た少女である。薄い月光に照らし出された顔には、見覚えがあった。昨日の少女、涼だ。のっぺらぼうは、思わず息を呑んだ。
涼の呼吸は荒い。肩で息をしている。だいぶ急いで来たらしい。一体なんなのだろうか。しかも、何やらいろいろ身につけている。首には屋台で売っているお面をひっかけ、右手にはりんご飴を握りしめていた。
のっぺらぼうが呆気に取られる一方で、涼はさらに近づいて距離を詰める。のっぺらぼうのすぐそばまで来た少女は、ぐっと顔を上げると嬉しそうな声音で言った。
「のっぺらぼーのお兄ちゃん、見つけた」
「なんで、また来たんだ。危ないだろう」
やっと言葉を返す。声が裏返りそうになった。
涼は昨日の様子となんら変わらず、無邪気に答えた。
「ちゃんとお礼をしなきゃ、って思って」
「お礼?」
「そう。昨日の、ありがとうのお礼」
「はい」と言いながら、涼はのっぺらぼうにりんご飴を差し出した。
「お口ないけど、食べられるんでしょ?」
「ああ……まぁ」
「だから、どうぞ」
「いや、それはお前のものだろう?」
「わたしはいいの!」
押し切られるような形で、のっぺらぼうは渋々りんご飴を受け取った。涼がにっこりと笑う。その表情は、暗がりの中でやけにはっきりと見えた。高鳴る胸をごまかすように、のっぺらぼうはりんご飴にかじりつく。
口もないのに物を食べる、という異様な光景を目の当たりにしても、涼は怯えるような素振りをしなかった。それどころか、あくせくと声をかけてくる。
「りんごあめ、おいしい?」
「あ、ああ……」
「よかった」
言いながら、涼は満足そうに小さな体を揺らした。相当嬉しいらしい。
「あ、そうだ。あとね、これも……」
涼が動きを止めて、首元へ手をやった。りんご飴だけでなく、まだ何かあるようだ。
見たところ、少女はどうやらお面を外そうとしている。だが、なかなか上手く取れない。危なっかしい手つきで、首にお面のゴム紐が絡まってしまうんじゃないかと、心配になってくる。
のっぺらぼうはりんご飴をくわえてしゃがむと、涼に向かってそっと手を伸ばした。小さな手に触れると、少女は手を止めてのっぺらぼうを見た。拒む様子はない。
「じっとしてろ」
おそらく、りんご飴が顔に突き刺さっているように見えるはずだ。ますます奇怪な状態だが、涼は動じることなく手を下ろした。
のっぺらぼうは慎重な手つきで、細い首からお面を外す。お面は、狐を象ったものだった。なんとなしに、白狐に似ている。
「ほら」
涼に狐のお面を渡す。
「ありがとう」
そう言ったものの、涼はすぐさま狐面をのっぺらぼうの方へ差し返した。
「あのね、これもあげる!」
きょとんとして、のっぺらぼうは涼を見つめた。一体どういうことなのか。自分に狐のお面をあげようだなんて、当てつけなのか。いや、こんなにも幼い少女が、そんなことを考えるとは思い難い。そう思いながらも、のっぺらぼうの声は低くなる。
「なんのつもりだ?」
怖気づく様子は一切見せずに、涼は変わらない明るい声で答えた。
「これをつければ、顔がないって分からないでしょ?お兄ちゃん、のっぺらぼーだけど狐さんだから、これがいいなって思ったの。これをつければみんな怖がらないよ。だから、一緒にお祭り行こう」
りんご飴のときと同じく、涼はお面を掲げて真っすぐに手を伸ばす。
のっぺらぼうは、差し出されたお面と、無邪気に笑う涼を凝視した。にこにこと笑う彼女に、きっと他意はない。
「ね、お祭り行こう」
また、涼が朗々と言う。のっぺらぼうは、のろのろとお面を受け取った。
ささやかな、けれど精一杯の気遣いに、泣きそうになるほど胸が震えた。
※※※
松虫の澄んだ声が響く。
のっぺらぼうは、我に返った。
気がつけば、すでに日はとっぷりと暮れており、辺りは真っ暗だった。当然、神社に人影はなく、白狐もどこかへと行ってしまったようで、姿が見えなかった。社の屋根に突っ立ったまま、昔日に思いを馳せていたら、それなりに時が経ってしまったらしい。
神社は、ひっそりと闇に沈んでいた。だが、明日はこの時間になっても明るく、人間たちが大勢集っているはずだ。妖怪たちも出張って、賑やかな一夜になる。
そして、涼もやって来るに違いない。
のっぺらぼうは、夜空を仰いだ。遠くに月影が見える。ほんの少々欠けた月。きっと、明日か明後日には満月になる。涼と初めて会った日と同じだ。
涼が初めてお面をくれた、あの時。涼に誘われるまま、のっぺらぼうは秋祭りを見に行った。境内の隅の暗がりから、こっそりと見物していただけだが、それでも楽しい祭りの夜だった。少しだけだが子供神楽を見られたし、笑顔ではしゃぐ子供たちも見ることができた。何よりも、祭りの空気に直に触れることができた。いろいろと出店を見たかったらしい涼は、少し不満げだったけれど。
しかし、それでも彼女は、終始のっぺらぼうのそばから離れなかった。夜が更けてのっぺらぼうが幾度も「帰れ」と言っても聞かず、結局また探しに来た母親に連れられて、家路へと帰っていった。
秋祭りの後も、涼はよくのっぺらぼうのもとに遊びに来た。かくれんぼをしたり、ボール遊びをしたり、林の奥に生き物を探しに行ったり。美容師さんごっこと称して、のっぺらぼうの髪の毛をぐしゃぐしゃにしたこともあった。涼はおやつを持ってくることも多く、おかげでのっぺらぼうは最近の人間が食べるお菓子に詳しくなった。それから、楽しかった出来事や悲しかった出来事など、涼はのっぺらぼうに様々な話を聞かせてくれた。
そして秋祭りには、のっぺらぼうのために新しいお面を買って、持ってくるのだ。
ささやかな交流であったが、かけがえのない時間であった。
しかしながら、のっぺらぼうは、涼との関係は長く続かないと思っていた。
子供は、妖怪の気配に敏感だ。それは正しく言葉の通りであり、年を重ねれば見ることはもちろん、感じることもできなくなるのが普通だった。だいたいの場合、小学生と呼ばれるようになる頃には、自然と見えなくなる。もとい、怪異の存在に気がつかなくなると言った方が正しいか。そして、そんな出来事などなかったかのように、記憶からも消えてしまうという。だから大抵の人間は、妖怪が見えない。
ところが、涼は違った。
小学生になっても、中学校に通うようになっても、さらに進学して高校生になっても、彼女はのっぺらぼうのもとにやって来た。時には、学校に行っているはずの時間にも、姿を現した。
そしてやはり、秋祭りの時には必ず、屋台の狐面をのっぺらぼうにくれるのだった。今のっぺらぼうが被っているのも、去年の祭りの時に涼に買ってもらったものだ。
それは最早儀式だった。のっぺらぼうと涼で行う、二人だけの密やかな行事。
きっと今年も、涼はやって来る。前に彼女に会ったのは三月の中頃だったから、かれこれ半年ぶりである。
涼のことを思うと、のっぺらぼうの心が温かくなる。それと同時に、ざわついた。白狐の言葉が、脳裏によみがえる。「随分、長いな」
のっぺらぼうは頭を横に振る。そうして不安を振り払うと、ぐっと顔を上げた。
「涼は来る」
静かにつぶやく。まるで、呪いでもかけるみたいに。
そうして夜が明けて、また陽が沈んだ。空の端に、満ちて丸々と膨らんだ月が浮かび上がる。提灯に明かりが灯り、祭り囃子が鳴り始める。
けれど、涼は来なかった。祭りの夜になっても。祭りが終わってから、どんなに待っても。
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