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肆
木枯らしが吹きすさび木々の葉が落ちたのは、もうだいぶ前のこと。あっという間に冬が来て、そして終わろうとしていた。
まだまだ気温は低いが、時折柔らかい南風が吹く。神社に並ぶ、丸裸の桜の木。その枝のそこかしこに見える新芽から蕾が出てくる日も、そう遠くない。膨らんで色づいて、花が咲く。もうすぐ春が来る。
その無情な事実を感じ取り、のっぺらぼうは桜から視線を逸らした。
目まぐるしい変化に、一人取り残されてしまっている。置いてけぼりの心は、秋のままぴたりと止まっていた。
のっぺらぼうは、未だに涼が来るのを待っていた。
年が明けても、涼の姿を見ることは叶わなかった。彼女は、毎年初詣のついでに、のっぺらぼうに新年のあいさつをしに来るのだが、それもなかったのである。節分やバレンタインデーなど、一緒に過ごすことがお馴染みとなっていた季節の行事の日も同じく、涼は現れなかった。
分かっていたことではないか。いつか、いや明日にでも起こり得ることだと。分かっていたはずなのに。涼はとっくに子供ではなかった。
そのように、ひたすら自身に言い聞かせながらも、のっぺらぼうは神社まで出張ってきては、涼の姿を探してしまう。今日もそうだった。
社の屋根から見下ろしてみても、境内に人の姿はない。現れる気配もない。時間ばかりが過ぎ、虚しさだけが募ってゆく。ふと空を仰げば、端が薄らと朱に色づいていた。
いい加減やめろ、とのっぺらぼうの頭の中で言葉が響く。今日だけでも、何度目になるだろう。このまま待っていても、日が暮れてゆくだけ。余計に寂しくなるだけだ―。
のっぺらぼうは、全身に力を込めた。そうして、自身をこの場に縫いつける。
鳥が羽ばたく音がした。のっぺらぼうが顔を上げると、視線の先にひょろりとした人影が見えた。紺色のロングコートに橙色のマフラーを身につけ、手には紙袋を提げている。ほっそりとした体つきと洋服のデザインから察するに、おそらく女性と思われる。
なんとなしに既視感を覚えて、のっぺらぼうはその人影をじっと見つめた。うつむきがちだった女性が、顔を上げる。その面差しを認めた瞬間、のっぺらぼうはすぐさま社の屋根を蹴った。着地すると同時に姿を隠す術を解き、やって来た人間を出迎える。
のっぺらぼうの正面まで来ると、女性は足を止めた。その彼女の名を、のっぺらぼうは呼んだ。わずかではあったが、声が震える。
「涼……?」
「久しぶり、になっちゃったね……」
やって来た人間は、涼だった。
背の高い少女、というよりは、もう女性といった方がしっくりくる。もともと背が高かったが、また伸びたようだ。もしかしたら、のっぺらぼうの背丈を、追いこしているかもしれない。長かった髪の毛をばっさり切っており、随分と涼やかな印象になっていた。一瞬、誰だか分からないほどに、彼女は変わっていた。
「あの、ごめんなさい。去年は大学受験で忙しくて、お祭りも初詣も来ることができなかったの」
そう言いながら、涼はどこか気まずそうに目を伏せた。
「そう、だったのか」
のっぺらぼうは、ぼんやりと頷いた。受験という言葉は、数年前にも聞いたことがある。その時は、高校受験と言っていたか。だが、あの時とは違う。高校受験の時は、涼は秋祭りにも初詣にも、バレンタインデーの時だってやって来た。のっぺらぼうのところに、会いに来た。
聞きたいことはたくさんあるのに、のっぺらぼうは言いあぐねていた。なかなか言葉が出てこない。聞くのが怖い。涼の答えを聞くのを、恐れている。
涼も同じような様子だった。伏し目がちに、何度も唇をなめている。
お互い黙ったまま、しばらく経った。
やがて、先に口を開いたのは涼だった。
「あの、言わなくちゃいけないことがあって」
一旦言葉を切って、涼が目線を上げた。真っすぐのっぺらぼうを見つめる。
のっぺらぼうの心臓が、大きく脈打つ。潤んだようにも見える、涼の黒い瞳。しかし、湛える光は強く、彼女の決意を感じさせた。
言わないでくれ、とは言えない。のっぺらぼうは拳を握りしめた。
涼がそっと口を開く。
「私、引っ越すの。大学の近くに。だから……この町から出るんだ」
それが、何を意味するのか。のっぺらぼうには分かった。きっと涼も気がついたから、今日こうしてやって来てくれたのだ。
ついに終わりの時なのだ。この町を離れたら、涼はもう見ることも感じることも、できなくなる。
「そうか……」
のっぺらぼうは、ぽつりとつぶやいた。それっきり、なんと言えばいいのか、分からなくなってしまう。
再び訪れた沈黙を取り繕うかのように、涼が焦って紙袋から何か取り出した。
それは、お面だった。隈取のような、赤い模様が入った狐の面だ。今、のっぺらぼうがつけている、お馴染みのプラスチックのお面よりも、ずっとしっかりした作りであるのが一目で分かる。そして、色は白ではなく、黒。これまでとはまるで異なる、狐の面だった。
涼が、黒い狐面を差し出す。
「これ、もう必要ないかもしれないけど、よかったら受け取ってくれないかな。何もないのも、寂しい気がして」
「ああ……。ありがとう」
のっぺらぼうは狐面を受け取ると、手早くお面をつけ替えた。涼が何も言わずに、手を差し出す。のっぺらぼうは、白い狐面を涼に渡した。毎年の慣例で、古くなったお面は、涼が持ち帰るのだった。
古い狐面を紙袋にしまいながら、涼は言う。
「お面、黒い方がぴったりだと思ったの、間違いなかった。似合ってる」
「そう、か?」
「似合う」と言われて嬉しいはずなのに、のっぺらぼうの声音はぎこちない。もう、その時はすぐそばまで来ている。
「うん。すごく似合ってる」
優しい声で涼はそう言うと、すっと姿勢を正してのっぺらぼうを見つめた。
「今までありがとう。ずっと私に付き合ってくれて。ここに来れば、いつもあなたがいてくれるのが、すごく嬉しかった。私のわがまま、たくさん聞いてくれたよね。だから私、いろいろ頑張れたんだよ。本当に、ありがとう」
そう言いながら、涼は柔らかく笑う。のっぺらぼうの知らない、美しい笑顔。のっぺらぼうの胸が締めつけられる。体が自然と動く。手を伸ばし、涼の肩に触れ、そのまま己の方へと引き寄せた。
「違う」
抱き寄せた涼の耳元で、のっぺらぼうは想いを言葉に乗せる。はっきりと力強く。
「俺がやりたかったから、そうしてたんだ。涼に、会いたかったから。涼と一緒にいたかったから。お面だって、嬉しかった。だから、お礼を言うのは俺の方だ。いつも、来てくれてありがとう」
「……本当に、のっぺらぼーはいつも優しいお兄ちゃんだ」
涼が微かに身じろいで、のっぺらぼうの肩口におでこを押しつける。甘えるようなその仕草が愛おしくて、またのっぺらぼうの胸が詰まった。抱く腕に力がこもる。
「俺は、涼のことずっと覚えてる」
「ありがとう」
しばらくの間、のっぺらぼうは涼を抱きしめたままでいた。このまま時が止まってしまえばいいのにと思ったが、それは叶わない。分かり切っていることだったが、冷えた風が吹き抜けた時、ひどく切ない気持ちになった。
もう日が沈む。これ以上、彼女を引き留めるのはよくない。
のっぺらぼうはそっと体を離して、涼を見つめた。
何か言わなくてはいけない気がするのに、喉の奥で言葉がつかえる。大切な別れの言葉なのに。「さようなら」と言うのは悲しい。「またいつか」はもっと悲しくて、嘘でも言えない。黙っていたら、顔の上部がじわりと熱くなり、視界がぼやけた。
ふいに、涼がのっぺらぼうの面に触れた。
「泣かないで」
涼が言う。のっぺらぼうは頭を振った。
「……泣いてない」
お面をつけているうえに、顔そのものがないのだ。泣いているかなんて、見て分かるものではない。
しかし、涼は微笑みながら言った。どこまでも優しい声だった。
「嘘。泣いてる」
言われて、のっぺらぼうは顔を背けた。
「なんで分かる」
「分かるよ。ちゃんと見えるもの」
なんとでもないというくらい軽やかに、涼は言った。
※※※
咲きこぼれる淡紅の花の合間に、新緑が見え隠れする。桜の季節も、そろそろ終わりだ。社の屋根に腰かけて、のっぺらぼうは神社を眺める。
境内にはちらほらと人間の姿があったが、そろそろそんな人影も見なくなるだろう。人気のない、静かな神社に戻る日も近い。
この次に賑わうのは、おそらく秋祭りの時か。
のっぺらぼうは、胸苦しくなる。じわりと広がるほろ苦い痛みを味わいながら、ごろりと屋根に寝転がった。視界いっぱいに青空が広がる。流れゆく雲を見つめながら、遠い地へ思いを馳せた。のっぺらぼうの知らない、人間たちの暮らす場所。
涼は、すでにこの町から出て行った。新しい土地で、新しい生活を始めているはずだ。
いつまでも、子供のままでいるわけがない。涼は一人の人間として、新しい一歩を踏み出した。
それは当然のことであり、別れは仕方のないこと。
そう分かっていても、やはりのっぺらぼうは寂しかった。それくらい、のっぺらぼうにとって、涼との時間は特別だったのだ。
思わず顔の面に手を伸ばしかけたとき、突然目の前に見慣れた顔が現れた。白狐だ。
「あの娘はもういないぞ?」
至近距離で白狐が言う。面の隙間からひげが入り込んできて、ちくちくと非常にうっとうしい。のっぺらぼうは手で白狐を振り払いながら、体を起こした。
「分かっている」
軽やかな足取りでのっぺらぼうから逃れる白狐めがけて、ぶっきらぼうに言った。
すると、白狐はさらに尋ねる。
「では、どうしてそんなところにいるのだ?」
「あの人間たちを見ていただけだ」
煩わしさを感じながらも、のっぺらぼうは顎をしゃくって真下を示した。
葉桜と社を写真に収める壮年の男性と、はしゃぐ小さな子供とその様子を見守る母親。それぞれ、思い思いに桜花の終幕を楽しんでいるようだ。子供が地面に積もった花びらを蹴り上げて、きゃっきゃっと嬉しそうに笑う。のっぺらぼうもつられて――顔には出ないだろうが――微笑んだ。
白狐が「ほう」と、お決まりの素っ頓狂な声を上げる。のっぺらぼうがちらりと様子をうかがえば、白い狐は目を細め、にやついていた。
「寂しいのか?」
「……寂しいに決まっているだろう」
のっぺらぼうが答えると、白狐は目を瞬かせた。驚いているようだ。
「なんだ?」
「……いや、なんでもない」
白狐が頭を横に振る。なんだったのだろうと、のっぺらぼうは首を傾げた。だが、すぐに疑問はかき消えた。白狐の表情が一変し、先ほどと同じようないやらしい笑みを浮かべたのだ。
「それで?」
わざとらしく白狐が言う。
「お前は、いつまでのっぺらぼうでいるつもりだ?」
「……いつまでなんてない」
答える声は思った以上に冷たく、愛想の欠片もなかった。しかし、白狐はまったく気にする様子もなく、大げさに息を吐く。呆れというよりは、揶揄うような気色である。
「まったく。もう、もとの姿に戻れるようになっているくせに」
「俺の勝手だろう」
言いながらのっぺらぼうは、白狐から顔を背けた。
南からの強い風が吹き抜けて、桜色の花吹雪が舞う。もうすぐ春は終わり、夏がやって来る。
今後いくら季節が巡っても、のっぺらぼうが涼と言葉を交わすことはない。きっと、会うことすらないだろう。涼の記憶からのっぺらぼうのことが消えてしまう日も、そう遠くない。彼女には、思い出すら残らない。
しかし、すべてを忘れてしまっても、二人で過ごした日々は、涼の心のどこかに息づいているはずだ。出会ったことも、秋祭りの狐面のことも、一緒に遊んだことも、別れたことも、それらは嘘でも幻でもない。間違いなく在った。
だからこそ、のっぺらぼうは、まだしばらくのっぺらぼうでいたかった。涼がくれた思い出を、薄めるような真似はしたくない。彼女のことは、ずっと覚えていたいのだ。
のっぺらぼうは手を伸ばし、今度こそ狐面に触れる。白ではなく黒色の狐だが、確かに涼から貰った最後のお面。
募る愛おしさを指先に乗せ、のっぺらぼうはゆっくりと狐面の縁をなでた。
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