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思い出の欠片~叶わぬ願いを想うとき~
どうやら、梅雨は一息ついたらしい。連日のしつこい雨が嘘のように晴れ渡った空には、燦々と輝く太陽とまばゆい白雲が浮かんでいる。春の淡い空とは異なる、夏の足音が聞こえてきそうな空模様は、くっきりとして濃い。
雨が続くところに、突然現れた晴れ間である。そんな思いもよらない日和だからか、のっぺらぼうの身にも予想だにしない出来事が起こっていた。
緑眩しい林の中、幹が二股に分かれた木の下で、のっぺらぼうは立ちつくす。正面に見えるのは、赤、黄、緑といった色とりどりの細長い紙。そして、その紙を突き出す、笑顔の涼。
のっぺらぼうは狐面の隙間から指を差し入れて、ぽりぽりと頬をかいた。
「いや、どれがいいかと言われても……」
「一番好きな色でいいよ!」
言葉を濁すのっぺらぼうであったが、涼は引き下がらない。
「のっぺらぼーも短冊書こうよ」
涼が言うには、今日は七月七日、七夕であるらしい。なんでも、空の上に暮らす織姫という女性と、彦星という男性が一年に一度会える日で、そんな日に地上の人間は短冊に願い事を書いて、笹に飾る風習があるとのこと。そうやって、星に祈りを捧げるのだと、涼は熱っぽく語ってくれた。
七夕というのは、のっぺらぼうも知っている。織姫と彦星の物語はうろ覚えだが、飾りのつるされた笹は見たことがある。すっかり寂れてしまったこの稲荷神社だが、かつては七夕の時節になると笹飾りが飾られていた。本当に昔の話で、見なくなって随分経つけれども。
昔は長雨が終わった後、夏の最中に行なっていた記憶があるが、涼曰く今はそうではないらしい。
のっぺらぼうの記憶より早いものの今日が七夕であるのは間違いないようで、それ故に涼はしきりに短冊を書こうと誘ってくるのだった。
これは、のっぺらぼうにとって、予想外の出来事であった。今日が七夕だと、知らなかったこともある。それだけでなく、短冊に願い事を書こうと―つまり字を書けと―せがまれるとは思ってもみなかったのだ。
鮮やかな色紙を前に、戸惑いはなかなか消えない。のっぺらぼうはどうにも動けず、ただただ短冊を凝視するばかり。すると、涼はしかめっ面になった。
「のっぺらぼー、聞いてる?」
のっぺらぼうは、小さく息を吐いた。
彼女と出会って、そろそろ一年が経つだろうか。この約一年の間、涼は何度ものっぺらぼうのもとに遊びに来た。特に季節の行事があるときは、それをやたらとやりたがった。昨年の年末、クリスマスとかいう時期には、「プレゼントだよ」と大量のお菓子を持ってきたし、年が明けてからは餅や羽子板を持って来るわ、節分のときは豆まきをやりたがるわ。それから、春の終わりには子供の日だと言って、柏餅を一緒に食べた。
このような行事をやりたがるとき、涼はかなり頑固になるということを、のっぺらぼうはすっかり知っていた。のっぺらぼうが断っても、頑として聞かない。そのため、いつものっぺらぼうは押しきられて、彼女に付き合う羽目になる。妖怪であるのっぺらぼうと、わざわざ季節ごとのならわしをやりたがるだなんて、本当に不思議な子供である。
しかし、今回の七夕はどうしようもない。短冊を飾るくらいなら付き合えるが、短冊に願いを書くことは無理だ。何故なら。
「……書けない」
のっぺらぼうがつぶやくと、涼は首を傾げた。
「なんで?」
「字だ。字が書けないんだよ」
のっぺらぼうは、正真正銘妖怪だ。だから、文字を書くことなど、できない。
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