思い出の欠片~叶わぬ願いを想うとき~

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 しかし、涼は納得がいかない様子で、相変わらず眉根を寄せたままだ。 「えー、お兄ちゃんなのに、字が書けないの?」 「……悪かったな」  ぶすっとした口調でのっぺらぼうが言えば、涼はさらに問いかける。 「なんで、字が書けないの?」  のっぺらぼうは、心の中で大きなため息を吐いた。  この少女にとって、のっぺらぼうは本当に単なるお兄ちゃんのようだ。人間でないことは分かっているだろうに、人とさほど変わらないと思っているらしい。 「俺は人間じゃないんだ。字なんて習わないんだよ」 「そうなの?」 「そうだ」  のっぺらぼうがはっきり言うと、やっと涼は黙った。追い打ちをかけるように、のっぺらぼうはさらに言葉を重ねた。 「だから、短冊なんて書けない。飾る笹だってない。そういうことは家でやれ」 「……笹はおうちにあるから、そこにかざるもん」  恨めしそうに、のっぺらぼうを見つめる涼。不満が全身からにじみ出ている。のっぺらぼうは、たじろぐ。しかし、どうしたって字が書けないのだから、どうしようもない。 「書けないものは書けない」  そうのっぺらぼうは繰り返したのだが、やはり涼は引き下がらない。仕方がないので、短冊を押し返そうと手を伸ばす。すると突然、「あ!」と涼が声を上げた。 「それじゃあ、わたしが代わりに書く! のっぺらぼーの願い事。それならいいでしょ」  のっぺらぼうは言葉に詰まった。確かに、涼が代わりに書けば、それで万事解決である。  早速とばかりに、涼はその場にしゃがむと、手提げ鞄から筆記用具を取り出した。下敷きの上に短冊を並べて、右手に鉛筆を握る。あっという間に準備が整ってしまった。  不機嫌そうな表情を一掃させた涼は、先ほどまでとは真逆の、きらきらとした瞳をのっぺらぼうに向けてくる。こうなると、のっぺらぼうは断れない。 「色は何色がいい?」 「……み、緑」  おずおずと答えると、涼はにんまりと笑いながら、緑色の短冊を下敷きの上に載せた。 「願い事は何?」 「願い事……」  涼の言葉を繰り返しながら、のっぺらぼうは考える。  もとの姿に戻ることだろうか。確かにもとの姿に戻れたらいいと思うが、どうしてかしっくりこない。それに、そんな願いを言ったら、涼に己の身の上を話さなければならなくなるだろう。それは面倒だ。あんな情けないこと、話したくない。  ぱっともう一つ思い浮かんだものもあるが、それは願うにしては不毛すぎたので、すぐさま胸の奥に押し止めた。  結局、ちょうどよい願いが思い浮かばず、のっぺらぼうは黙り込む。すると案の定、涼はしびれを切らした。 「願い事、ないのー?」 「ないというか、いいのが思いつかない」 「じゃあ、わたしとおんなじこと書いちゃっていい?」 「あー、ああ……」  何を書くかは知らないが、本当に何も思いつかないのっぺらぼうは頷いた。ひどく気のない返事だったが、涼は構わずに鉛筆を動かし始めた。数文字書いたところで、涼は完全に地面に足を折って座り込む。すぐ近くには、小さな水たまり。 「服が汚れるぞ」  見るに見かねて声をかけたのっぺらぼうであったが、涼は取り合わない。手を動かしながら、「えー」と不満そうな声をもらす。 「でも、こうしないと書きにくいんだもん」  やれやれと、のっぺらぼうは肩をすくめた。本当に頑固というかなんというか、やりたくなったらそれしか見えなくなる子供だ。 「こっちに来い」  のっぺらぼうは涼を抱き上げると、木陰に腰を下ろした。そして、胡坐(あぐら)をかいたその上に、涼を座らせる。ついでに、足の汚れを着物の袖で(ぬぐ)った。 「ほら、早く書け」 「これじゃあ、のっぺらぼーが汚れちゃうよ」 「俺は汚れてもいいんだよ」  もとはといえば、のっぺらぼうは獣の妖怪だ。体が汚れたって、構いやしない。  しばらく、涼は不思議そうにのっぺらぼうを見つめていたが、やがて「あ、そっか」と言うとにっこり笑った。 「のっぺらぼー、ありがとう」  そう言いながら、涼は狐面をぺたぺたと触る。なでているつもりなのだろうか。のっぺらぼうは頬が熱くなるのを感じて、とっさに涼の手を押さえた。 「い、いいから、さっさと書け」 「はーい!」  元気よく返事をした涼は、体の向きを正面に戻すと、願い事の続きを書き始めた。  夏のような強い日差しが降り注ぎ、木漏れ日がきらめく。かんかん照りだが、日陰にいればそれほど暑くはない。時折吹き抜ける風は柔らかく、そっとのっぺらぼうの頬をかすめて行った。  涼は、一生懸命短冊に字を書いていた。一字一字ゆっくりと。時々手を止めて、何事かを考えながら。緑色の短冊を書き終えると、涼は再び短冊の束を手に取った。色紙を広げ、じっと見つめている。 「どの色にしようかな」  涼がつぶやく。小さいけれど弾む声音。彼女の表情は見えないが、なんだか楽しそうな雰囲気が伝わってくる。やがて、涼は黄色の短冊を一枚選ぶと、またそこに文字を書き始めた。 その様子を、のっぺらぼうは黙って眺める。  心地いいと、のっぺらぼうは思った。ずっと、こんな時間が続けばいいと。  先ほど心の奥にしまい込んだ思いが、かたりと音を立てる。のっぺらぼうは、はっとした。
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