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取り残されたのっぺらぼうの周りには、短冊と筆記用具が散らかったままだ。視界の端に、願い事が書かれた短冊がちらつく。取り上げようとのっぺらぼうは手を伸ばしたが、拾う勇気は出なかった。手を下ろして、深々と項垂れる。
ひどいことを言ってしまった、という思いが渦巻く。だが、そのひどい言葉は真実だ。辛い事実が、心に重たくのしかかって来る。
つい先日、六月の終わりに涼は五歳になった。怪異が見えなくなるまで、そう時間はかからない。
その時が来てしまえば、当たり前だが、涼はのっぺらぼうのことが見えなくなる。感じ取ることすら、なくなるだろう。そして、忘れてしまう。のっぺらぼうのことを、何もかも。涼の記憶から、のっぺらぼうは消えてしまうのだ。
涼と出会ってすぐの頃は、こう何度も彼女がやって来るとは思わなかった。どうせ数回ですぐ飽きるだろうから、満足するまで付き合おうと、そんな風に考えていた。けれども、この一年の間、涼は何度も何度ものっぺらぼうに会いに来た。二人で、特別なことをやりたがった。
いい加減、涼と会うのをやめてしまった方がよいかもしれない、とのっぺらぼうは思った。
「行ってしまったぞ」
ふいに、声が降ってきた。のっぺらぼうは、頭上を一瞥する。太い枝に、器用に寝そべる白狐の姿があった。
「帰るんだろ」
拗ねたような口調でのっぺらぼうが答えれば、白狐はふっと息をもらした。
「今さら怖くなったのか」
はっとして、のっぺらぼうは白狐を見やる。玉虫色の瞳が、見つめ返してくる。
「そのがらくたみたいな面を、ずっと被っているくせに」
のっぺらぼうの心が、大きく揺らいだ。白狐の目を直視できなくなって、うつむく。
のっぺらぼうは、そっと狐面へ手を伸ばすと、指先で縁をなぞった。ところどころ欠けてしまっているのが、感触で分かる。祭りの屋台で売っている、子供でも買えるお面だ。ずっと身につけていれば、劣化して当然だ。
思い出してしまう。涼からこの狐面を貰った、あの時のことを。視界を閉ざせば、提灯のきらめきがちらつく。
嬉しかった。嬉しくてたまらなくて、この縁を、涼とのつながりを、失いたくないと思った。
どうせ少しの間だろうから付き合ってやろう、などというのは単なる強がりでしかなかった。のっぺらぼうは、最初から涼との関係が続くことを望んでいた。そしてそれは、今も変わらない。むしろ、日に日に強くなってゆく。ふとした瞬間に、ずっと涼と一緒でありたいと、願ってしまうくらいに。だから、この狐面を被り続けているのだ。こんなに、ぼろぼろになってしまっても。
「分かってる……。そんなこと、分かってる」
のっぺらぼうは、自身に言い聞かせるように声を絞り出した。
望んでいると分かっていても、それでも気持ちは揺らぐ。ひたひたと近づいて来る、終わりの時。その姿は、もう見えている。
その時が来たら、のっぺらぼうはまた独りになってしまう。野狐なのか、のっぺらぼうなのか、自分でも分からぬまま、誰にも忘れられて虚ろになってゆくあの感覚を思うと、怖くてたまらない。そして涼がいなくなったら、傷つくに決まっているのだ。涼との思い出を重ねれば重ねたぶん、孤独は研ぎ澄まされ、深い傷を刻む。光が強いほど、影もまた濃くなる。
「どうする? 捨てるのか?」
素っ頓狂な声で、白狐は問いかける。しかし、のっぺらぼうは答えることなく、もう一度狐面をさすった。
そのまましばらく黙り込んでいたのっぺらぼうであったが、やがてゆっくりと立ち上がった。
「……捨てない」
ささやきに似た小声で、のっぺらぼうは言った。頭上で、白狐の笑うような息遣いが聞こえた。だが、のっぺらぼうは取り合わずに、散らかっている短冊や筆記用具を片づける。すべて涼の手提げ鞄にしまったところで、白狐に尋ねた。
「涼がどこにいるのか、分かるのか」
「さあて」
軽い口調で、白狐ははぐらかす。のっぺらぼうは小さく息を吐くと、白狐に背を向けた。するとすぐさま、揶揄うような声が飛ぶ。
「行くなら急いだ方がいいぞ。連れていかれてしまう」
のっぺらぼうは振り返る。白狐は、訳知り顔といった様子で、にやりと笑った。
のっぺらぼうは空を仰いだ。辺りはまだ明るい。しかし、太陽はだいぶ傾いていた。低いところから、斜めに差し込んでくる陽光。
「そういうことは早く言え!」
そう叫ぶと同時に、のっぺらぼうは走り出した。
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