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(ひぐらし)が鳴いている。そのしとやかな音は、重なることなくただ一つ。真夏の騒々しさはなく、どこか物悲しく茜空に響き渡る。まるで、残された者の哀愁を(うた)っているようだ。  空にはうろこ雲が広がり、夕日を受けてきらきらと輝いている。昼間の熱はだいぶ冷め、渡る風も爽やかだ。未だ日中には色濃く夏が残っているが、こうして日の沈む頃合いになると、確実に季節は進んでいるのだと分かる。夏が終わり、秋になろうとしている。  のっぺらぼうは、そっと神社を見下ろした。端から見れば目はない――それどころか鼻や口、耳だってない――のだが、見た目がそうあるだけで、ちゃんと見えている。視覚だけでなく、他の感覚だってしっかりと機能している。  (やしろ)の屋根の天辺からだと、神社全体がよく見渡せた。境内のいたるところに提灯が飾られ、色とりどりの屋台の屋根が、参道を華やかに彩る。屋台は、鳥居の向こう側、石段の下にも並んでいた。そして、社の脇には舞台が設えられており、その周辺に数人の人影があった。  裏手に山を背負った小さな神社において、人間の姿がある時分というのは限られている。正月か桜の咲く頃合い、もしくは秋の始まりに行われる祭りの時期だ。今は三つ目、秋祭りが当てはまる。祭りの時期が迫っていた。というか、おそらく明日だ。明日から二日間、この稲荷(いなり)神社では祭りが行われる。  珍しい人影の正体は、迫りに迫った祭りの準備に精を出していた人間たちである。ようやっと作業を終えて、引き上げようとしているらしい。彼らはほとんどが年を経た年配者だったが、まだ若い少年少女や幼い子供の姿もちらほら見えた。  のっぺらぼうは、秋祭りが好きだ。大概この辺りをねぐらとしている妖怪たちは皆陽気で、祭りの時期になると見物に出掛けては、その雰囲気を楽しむ連中が多い。そもそも、神社に祀られている白狐自体がお祭り好きだった。のっぺらぼうも彼らと違わず、祭りの時期が近づくとそわそわと落ち着きがなくなってくる。こうして、祭りの準備を見に来てしまうくらいに。 「おーい、りょうちゃーん! 帰ろー!」  朗らかな大声が響き渡り、のっぺらぼうは素早く視線を上げた。真っ赤な鳥居の近くに、制服を着た小柄な少女が見えた。それから、彼女に向かって駆け寄る、ころころとした幼児。呼びかけたのが少女の方で、「りょうちゃん」というのは幼児の方だ。  なんだ、違うのか。そう思いながら、のっぺらぼうはそっと自分の頬―正しくは顔につけているプラスチック製の白い狐面を―さすった。  ふいに、すぐ右側から揶揄(からか)うような陽気な声が聞こえた。 「残念。人違い」 「うるさい」  声の主の方は見ずに、のっぺらぼうは答えた。視界の端で、ふさふさとした白い獣の尾が揺れている、と思えば、すぐさま目の前に真っ白い狐が躍り出た。社の屋根の上だというのに、なんとも器用な身のこなしだ。 「相変わらず、浮ついているな。子供に見られたらどうする?」 「今は姿を隠している。あの子には見えていない」  のっぺらぼうは、無愛想に答えた。  白狐が喉の奥で笑う。 「ほう。姿を隠す術は使えるのか。それでは、いつまでそのままなのだ?」 「放っておけ」  のっぺらぼうは、ふいと顔を背けた。だが、白狐はしつこく視界に入ってくる。斜め前にちょこんと座ると、のっぺらぼうと同じく下界を見やる。太い尾を動かしながら、白狐は口を開いた。 「しかし、あの娘も随分と長いな。もう何年だ? 十年?」 「十四年だ」 「そんなになるのか」  さも驚いたという風に、白狐は素っ頓狂な声を上げた。一応、この神社に祀られている稲荷であるのに、威厳も何もあったものじゃない、そんな声音だった。 「これは、本当に随分だ」 「そうだな」  短く頷いたきり、のっぺらぼうは黙りこくった。これ以上、白狐と会話を続けたくないと思った。彼が言わんとすることが予測できたために。その言葉を聞きたくなかった。  涼やかな秋風が吹き抜ける。そっと息を潜めれば、(ひぐらし)の声の合間に祭りの音が聞こえてくるような気がした。祭り囃子(ばやし)に楽しそうなざわめき、それから神楽の笛と太鼓の音。  また、狐面をそっとなでる。お面は随分と劣化しており、端がでこぼこと欠けていた。  のっぺらぼうにとって、秋祭りは特別な日であった。ただ好きだから、というだけではない。祭りの日に、必ずのっぺらぼうのもとを訪れる人間がいる。新しい狐のお面を持って。名前は(りょう)。今年十八歳になった、人間の少女だ。  白狐の言った通り随分と、本当に随分と長い付き合いになる。  しかし、のっぺらぼうは今でも涼と出会った日のことを、はっきりと覚えていた。  彼女と出会った日、十四年前の秋祭りの日のことを。
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