一章 謎の結晶と魔法学園

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 夜の市街地は静寂を保っていた。数時間前まで降っていた雨は止み、地面には水たまりが点々と寝そべっている。住宅の屋根の上には水滴がとどまり、川は重い音を立てて土砂を押し流していた。  夜の市街地は静寂を保っていた。ただし――轟音を立てる川の側に植えられたパンジーの集まりが、次の一瞬の間に、すべての花弁を濡れた地面の上へ散らした以外には。  風は至って穏やかだった。川の水は土砂のみを流しているし、人影も獣の影も、その場にはひとつたりともない。しかしすべてのパンジーの茎には、鋭い爪で切り裂かれたような切り口が残っていた。  すると、頭を無くしたパンジーの頭上に、一陣の風が吹く。川を挟んだ向こう側に建てられた一軒家。その屋根の上に、三つの人影が音もなく降り立った。 「見つけたか?」 「ただ今。今花弁を刈り取ったけれど、それ以外は至って大人しい個体だね」 「どうやらそのようだ。ただの収集癖のある【ノイズ】か」 「うーん、思ったより弱そう~。今日一回も【オーロラ】使ってませんし、私たちが出てくる必要ってありましたぁ?」  端に立つ一人が退屈そうに伸びをして、身体をほぐし始める。それぞれ背丈こそ違っていたが、人影の服装は皆同じだった。晴れ渡った星空に溶け込むような濃紺のローブ。全員がフードを被っている為、その表情も顔色も一切見えない。柔らかく風にはためく布は高貴さすら醸し出す。  中央に立つ一人が肩を竦めてから、ローブの懐に腕を差し込んだ。 「俺一人で十分だったな」  悠々とした男性の声だった。ふん、と鼻を鳴らしながら、尊大な振る舞いをする男はローブから一本の長い木の枝を取り出す。  枝? 否、それは弓だった。矢をつがえて放つ武器の弓ではない。頭から白く長い毛が幾重にも張られた、弦楽器を弾く際の道具だ。  男は楽器も持たず、屋根の上で弓を構えた。片手剣にも似た構えをした、刹那――横に素早く一閃する。途端、静まった空気を切り裂き、風の刃がパンジーの群れに鋭い音を立てて飛んでいく。  パンジーの茎に刃が触れようとした、その直前。手前にあった「何か」に食い込み、刃は瞬く間に空気の中へ溶けていった。それを見守った後、男は弓を再び懐に戻す。  残りの二人はと言うと、一人は長方形の端末を耳に当てており、一人は腰を屈めて両耳を塞いでいた。 「うわあ~、今の耳にキンと来たあ。相変わらずシンシンの音って乱暴すぎなぁい?」  甘ったるく女性らしい声だった。両耳から手を離した甘い声の女は、尊大な男に顔を向けて不満げに腕を組む。その視線を男は顔を背けることで振り払った。 「やかましい。それより綺羅星(きらぼし)線の手配は?」 「既に。十分後、近くの駅に留まってくれるみたいだよ」  端末を耳元に当てていた人影が、電源を切りながら二人へ振り向く。落ち着いた男性の声だった。その柔らかな声色がもう一人の男に届くと、彼は口元をにやりと笑みにゆがませる。 「流石だな」 「どうも。……しかし、狙いはパンジーか。報告では花壇を荒らしていたとも聞いているし、綺麗な物が欲しかったのかな?」 「それかよっぽどお花に恨みでもあったんですかねー? まあ終わった事ですし、もう私たちには関係ありませんけど!」  女はローブの中に懐に腕を入れると、先ほどの尊大な男と同様に弓を取り出す。頭上に向かってスラリと描くように弓を振ると、助走を付けて屋根の端を蹴り上げ、身軽な体をコンクリートの地面に向かって飛び込ませた。  かかとのヒールが砕ける勢いで落下するが、幼児の身長ほどの高さがある空中で足を曲げると、留まるはずのないその場にピタリと着地する。そのまま宙を力強く蹴り、元いた屋根より高い空へ飛び上がった。風に舞い上がった体はローブがはためき、より近付いた星空にその濃紺が溶け込む。女は取れそうになるフードを頭に押さえながら、屋根の上に佇む二人へと振り返った。 「お二人とも~、私の魔法紋(エンブレム)ちゃーんと踏んできてくださいよお?」 「踏んできて欲しいならもう少し大きく展開する練習をしたらどうだ?」 「まあまあ、踏めない大きさじゃないよ。僕らも行こう」  落ち着いた男が尊大な男を宥めた後、二人は同様に屋根から飛び降り、空中を足場にして飛び上がる。野を駆けるウサギの跳躍よりも遙かに高く、速く、三人の体は空を渡った。近所を散歩をしているかのような、当然の顔つきで。 「そういえば、来年度の新入生はもう全員決まったんですかぁ? 学園長ったら珍しくデスクに頭をぶつける勢いで悩んでいましたよねー。あんな姿初めて見ましたぁ」  風を切りながら、女が世間話のトーンで口を開く。ああ、と尊大な男が相づちを打った。 「何でも、あと一人を入れるかどうからしい。期限の七月七日まであと一日しかないんだけどな……どうする気だあのジジイ」 「そうなのかい? 一人増えたところで僕らの仕事に支障はないから、どちらでも良いんだけれどね。学園長なりのこだわりがあったりするのかな?」 「話の通じないような馬鹿じゃなければ誰でも良い」  尊大な男がぼやくと同時に、三人は大きく跳躍して地面に降り立つ。  そこは駅のホームだった。電車の影も形もない夜中のホームは電光掲示板も沈黙を保っており、一切の音が鳴らぬまま静まりかえっている。三人は黄色い線の外側に立ち、合図もなく空を見上げた。  その時だった。きらりと光る流れ星が、勢いよく空を横切っていった。甘い声の女があっと驚いた声を上げる。 「落としたぁ! なーんだ、あれだけ悩んで結局増えるんですねぇ」 「無事決まったみたいで何よりだね」 「って事は、今年の【奏者】は九十二人か。……頼んだぜ、新入生」  三人は空を見上げ続ける。星の瞬きの向こうから、力強く蒸気が上り、車輪が活発に動く音が近付いてきていた。駅員も案内人もいない、無人の駅に向かって――まっすぐに。  
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