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「げほ……げほ、げほっ!」
葵という人から朝霧と呼ばれたその人は、辛そうに咳き込んだ。
その目には涙が溜まっている。
琴子に葵に朝霧。
この組み合わせは……
私は心の中で溜息を吐く。
ファンタジーの世界じゃないんだ。あり得るはずがない。その考えが当たって良いはずがない。私の勘違い。勘違いであってくれたら良いなと思う。
けれど、私の勘はよく当たる。嫌な時にだけ。
他の生徒のことを、私はちらりと見る。
ほぼ全員、その光景にどうすることもできなくて、固まっているようだった。
けれど、約2名ほど、別の意味で固まっている者がいた。恐らく、私と同じ考えが頭の中に浮かんだ者だ。まあ、その考えに該当してしまっていたら、そうなるだろうな。
自分がこんなにも冷静でいることに、私は驚きを隠せなかった。手に汗が溜まる。嫌な汗だと思う。清潔の欠片もない。
「霧島さん、一体どうして……」
その掠れた声で私は意識を現実へと戻す。
上手く呼吸ができないのだろう。必死に肩で呼吸を整えようとしていた。
「は? 一体何の話?」
「どうして君がここに……あの家に居てってあれほどーー」
「ああ、そのこと?」
霧島はくすりと笑った。
なぜ笑ったのか、朝霧は理解できていないようだった。
「良い機会だから教えてあげるね? 何を勘違いしているのか知らないけど、助けてくれなんて一言も言っていないから。あの家にいろと、あれほど言っただろう、って? 何、それで私のことを心配していますアピール出来ているとでも思ってるわけ?」
何を言われているのか理解できない。
何も言わない朝霧だったが、その表情は十二分に物語っていた。それでも、霧島は言葉を止めない。ここで止めてしまったら、二度と言えなくなってしまうような、そんな雰囲気を出しながら。
「甘いよ、本当に甘い。良い? 愚かで滑稽で哀れな朝霧紫。私はね、あなたの助けなんて求めていないの。必要としてもいない。私はあなたじゃなくて、琴子を選んだ。あの日からずっと、あんたのそばにいるのは苦痛だった。そのくだらない正義感とやらで、私のことを助けて。そのくだらないもので、私の意見なんて聞かずに匿って。良い迷惑だっつーの!! 分かる? あんたのくだらない正義感を振りかざす役割に、私を選ばないで! あんたは私の保護者でも何でもない。金輪際、私の前に現れないで!!!!」
長い台詞。
放たれた拒絶。
それら全てを突然受け入れることなど、到底できないだろう。現実を見ている者でも、そうでない者でも。恐らく、朝霧紫とやらは、霧島葵とやらを助けているつもりだった。
けれど、本人からしたらそれは救いでも何でもなく、ただの迷惑行為だった。
それはとてつもなくダメージが大きいものだろう。当事者ではないのに、なぜか胸の奥がきりきりと痛む。
「確かに……そう思われても仕方が無いのかもしれない。心配しているアピールに、見えたかもしれない。私は、あなたを助けたつもりでいただけなのかもしれない。けれど、私はあなたを、正義を振りかざすための傘にした覚えはないし、実際にしていない。あなたの意見を聞かずに勝手に決めてしまったことは、申し訳ないと思ってる。ごめん。けど、否定させて欲しいことはある」
受け入れながらも、全てを受け入れることはできないと言う。朝霧紫も、霧島葵も。お互いがお互いに必死なのだ。これはもう、どちらが片方を説得できるかにかかっている。
朝霧は、霧島の返事を待たずに言った。
「あなたは助けを求めていた。仮にその対象が私じゃなかったにしても、誰かに助けを求めていたことは確かだ。そして、あなたは私じゃなくて矢吹を選んだと言ったが、それは嘘だ。あなたは矢吹のことを選んでなんかいない。むしろ拒絶していた」
「な、にを……」
「だってもし、本当に矢吹のことを受け入れていたのなら、あの日、あの時……助けた私に涙なんて見せることなかったでしょう?」
「……ッ!」
「あれは、矢吹と離れるのが嫌で泣いたわけじゃない。安心したから泣いたんだ。そうでしょう?」
蹴られた箇所がまだ痛むのか、起き上がるまではいかなかったが、意識は正常のようだ。言葉もはっきりしている。あとはこれで丸く収まってくれればーー
そう期待したのは私だけではないはずだ。
ここにいる誰もがそう願ったはずだ。
もう残酷なものは見せないで欲しい。
そう願ったはずだ。だが無常にも、現実とは残酷なものである。
「そんな戯言……聞く価値すらない!」
霧島は吹っ切れたように懐へと手を入れ、それを取り出した。
その手に握られていたものは、折りたたみ式のナイフだった。
そのナイフを持ったまま、冷たい視線を朝霧へと向けた。
霧島はゆっくりと朝霧に近付いた。
倒れている朝霧の側まで近寄り、ゆっくりとしゃがむ。何かを朝霧の耳元で囁いた後、霧島はゆっくりとその場を離れた。
そこには、先ほどまで持っていたナイフはなかった。
なら、そのナイフは今ーー
視線を朝霧へと向けると、朝霧は血を吐いていた。その場には血溜まりがあった。
「え……あ……」
それを言葉として認識して良いのか分からない。
それでも、朝霧はそれを確認し、状況を理解し、涙を流した。自分の気持ちが届かなかったことを察して。
そして、この教室は、その現場を見てしまった生徒の悲鳴で包まれた。突然の乱入者。当然の出来事。全てに対して、皆がパニックになっていた。
この教室内が騒がしくなった時、2人はようやく、こちらの存在に気付いたようだ。
ゆっくりとこちらを向き、同じタイミングで2人は言った。
「あなたたち……誰?」
「あんたたち……誰だ?」
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