グラスの中に漂う煙

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 その男の定位置はカウンターの右奥、最も人目につかない場所だ。氷の入った琥珀色の酒を、時間を掛けてただ静かに飲んでいる。時折煙草に火を点け、深く長い息を吐き出す。誰かと一緒にいることを見た者はいないし、酒を飲む以外のことは何もしていない。何かの表情を浮かべている顔を見た人間すら、いない。  細い縁の眼鏡の下の顔は、端整と言えるだろう。短い髪は撫でつけてはいなくとも、乱れてはいない。セーターの袖を無造作にたくしあげているが、カウンターに両肘をついている姿勢にも拘わらず、背筋は美しく真っすぐだ。  その佇まいの美しさに惹かれて、ときどき声を掛ける人間はいる。そうすると彼は何も言わず、ただ眼鏡の奥から相手の顔を無表情に一瞥し、また酒に向き直る。  半地下の小さなバーは、カウンター五席テーブル三席で、フロアの奥に塗りの剥げかけたアップライトのピアノが置かれている。ときどき酔狂な客が悪戯に音を出すだけで、暗いフロアの中でポツンとライトが当たっていることが、却って侘しく見える。  ここのマスターは、かつてバンドマンであったという。サックスを抱えた若かりし日の彼の写真が、カウンターの中に一枚だけ飾ってある。  普段は低くジャズが流れているこの店の客は、総じておとなしい。もとよりドライトマトとチーズが一番高価なツマミで、酒の種類は多くとも長居してお喋りに興じるような場所じゃない。好みの酒を数杯舐めて帰っていく客は、余計なことを言わないマスターの、静かな接客が気に入っているのだ。  二十三時三十分、カウンターの男は咥え煙草のまま左手にグラスを持ち、おもむろに席を立つ。ゆっくりとピアノの蓋を開けると、鍵盤の重さを確かめるように、ふたつみっつ音を出した。まだ店に残っている数人の客がそちらをちらりと見て、ひっそりと心の中で拍手をする。この男が、歓迎や期待を喜ばないことは、一度でも居合わせた者なら知っているから。  ピアノの横の小さなテーブルにグラスを置いた男は、煙草を灰皿で潰してから、立ったまま鍵盤の上に手を広げた。無表情のまま指に力を入れると、複雑な和音が響く。  小さくすすり泣くピアノの声が、音を重ねるにしたがって慟哭に変化していく。男は目を閉じて、鍵盤を打ち続ける。ピアノが揺れるほどの激しい演奏を、フロアに座る人間が身じろぎもせずに聴く。絶叫するピアノと、男の眉間に深く刻まれる皺。  そしてパタリと音が止み、またすすり泣きに戻ったピアノが、ゆっくりと泣き止んだ。  男は黙ったままレジスターの前に立ち、勘定を済ませるとそのまま店を出ていった。顔しか知り会いでない常連客達は、互いに目を見合わせて溜息を吐いた。 「なんとも、凄絶な色気のある音で」 「あの演奏を聴けるのかも知れないと、遅くに出てくるのですよ」  ひそひそと会話して、帰り支度をする。 「マスター、彼は何者なんですか」  誰かが問うても、マスターは曖昧な笑みで返す。 「四十代前半ってところですか」  これにも否定も肯定もない。マスターは、男の正体を明かすつもりはないらしい。  場違いな客がいたものだ。 「なんでもいいから、酒」  テーブル席にどっかり座り、メニューを広げることもしない。 「どんなお酒がお好みでしょうか」 「どんなって言われたって、酒だよ酒。食うもんはないの?」 「ミックスナッツかチョコレートではいかがでしょう」  客は派手に舌打ちした。 「いい店だって聞いたから来てやったのによ。シケた店だな」  その時点でフロアにいた客は眉を顰めていたが、テーブルに届いた酒に文句を言いはじめると、数人の客は帰っていった。 「ダブルってこんなに少ないのかよ。ボッてんじゃねえの? 儲かるねえ、水商売ってやつは」  穏やかなマスターの顔色が変わった。  そのとき、カウンターの奥の男が立ち上がった。いつもの時間だ。無礼な男の前を通り過ぎ、ピアノの蓋を開ける。そしていつも通り煙草を揉み消すと、いきなり演奏を始めた。  初っ端から叩きつける音に、テーブル席の客は耳を塞いだ。生の演奏を聴きつけない耳には、ひどい衝撃音かも知れない。 「おい、そこのピアノ止めろ。うるせえ」  他人に命令することに慣れすぎてしまっている態度が、自分の言葉を無視する男にぶつけられた。立ち上がってピアノの横に立ち、男の手を掴むのは、他の人間が止めに入る(いとま)もなかった。  突然演奏を止められた男は、掴まれた手から視線を上に移した。氷のように冷たく激しい視線に、客は少々怯んだようだが、次の瞬間に立場を逆転させることに思い至ったらしい。 「おまえ、市役所前の税理士事務所のヤツだな。顧客の言うことは、素直に聞いた方がいいぞ」  手を離されると、男はまたピアノに向き合った。 「言ってることがわからないのか。おまえのとこのセンセイに、解雇するように言ってもいいんだぞ」  喚く客に、男ははじめて口を開いた。 「どうぞ、お好きに」  低く、深い声だった。  タイミングを計っていたマスターに、お代は結構と客は押し出された。男は興味を削がれたようにピアノの鍵盤を弾いていたが、決まりがつかなかったのか、軽い曲を弾き始めた。男の正体の一部が割れてしまったので、フロアにいた人間たちが親近感を抱くことは致し方ない。  それから帰るまで男はやはり無言で、誰かが声を掛けることはなかった。    ある日、綺麗な女が店を訪れた。年の頃なら四十代半ばだが、生活感は感じられない。マスターに何かを託し、そのまま帰っていった。  夜が更けて男が店に入ってくると、マスターは珍しく男の横に座った。小声で短いやりとりをしてから、女から託されたものを男に渡す。男は中を改めもせず、上着の内ポケットにそれをしまった。中身が何かは知っているようだった。そしてピアノには触らずに、帰っていった。  しばらくは普段の店の様子が続いていたが、三か月ほど後の春の夜、タキシードに髪を撫でつけた男が、早い時間に店に入ってきた。 「弾かせてくれ」  声を出したことに、フロアの人間が驚く。 「ああ、今日だったのか」 「綺麗だったよ」  渡されたグラスに入っていたのは、冷たい水だ。 「気が済むまで弾いて行ってくれ」  ピアノの蓋を開けた男は、穏やかな顔をしていた。何かを成し遂げてきたような、満足を浮かべている。そして誰もが知っている曲を、男の指先が奏ではじめた。 「これ、何だっけ」 「すっごいアレンジしてるけど、エリーゼのためにだと思う」  間髪を入れずにはじまったのは、歩行を揃えて教会を歩む曲だ。 「結婚行進曲だ。ジャズアレンジなんて、できるのか」  男の指が軽やかに動く。まるで今、喜びの席に参加しているかのように。  何曲か演奏したあと、フロアに向かって頭を下げて、男は出ていった。フロア客も笑顔で見送る。何があったのかは、誰も訊かない。何か喜ばしいことがあったのだと受け止めるだけの、淡い知り合いでしかない。  夜更け、閉店後のバーの中にサックスの音が響く。店の看板は下げてあり、カウンターの灯りも落としたフロアには、マスターだけがいる。  入口の扉が開き、上着を椅子に放り投げた人影が、ピアノの前に座った。 「やっぱり来たか」 「眠れなくてね」  マスターのサックスの後ろから、ピアノの音が這っていく。しばらく控えめに鳴っていた音が、少しずつ表に出はじめ、音の競り合いになる。やがてピアノのリードになり、セッションが終わった。 「相変わらず身勝手な演奏だな」 「変われれば、バンドも女も壊さなかったさ」  男のピアノはかつて、天才と褒め称えられた。少年のころから男をバンドに加えたがる人間は多く、そしていくつものバンドを壊した。  男は他人に合わせることができなかった。自分の音が全てで、自分のグルーヴだけが絶対で、他人に踏み込ませることを否定した。男の指先が作り出す音楽は艶めかしく切なく、力強く、そして排他的すぎる。  我こそは、今度こそはと男に近寄る人間は、敗北感に打ちのめされながら去っていく。そのことについて、男は酷く冷淡だった。 「バンドなんかどうでもいいんだ。俺には俺のプレイしかできない」  音楽に関してならば、他に道はあっただろう。けれど求められることに傲慢になっていた男は、その業界自体からはみ出していった。  女に関しても、同じことだった。生まれついての美しい容姿は、自覚していた。女はいつでも寄ってくるもの、去った女の代わりには次の女が寄ってきて、勝手に世話をするもの。鬱陶しい女は次々切って捨てたし、それでも執着してくる女には酷い言葉を投げつけた。  すべてを失ってピアノに触れなくなったころ出会ったのが、訪ねてきた女だった。はじめて人間関係で、安寧を覚えたと思った。このままふたりで生きていくのだと、そう思った。そう、ふたりで。男の考えの中に、親戚や子供の文字はなかった。  あなたのご両親に子供はまだかと言われて辛いの、と女は何度も訴えた。そのたびに、今に言い飽きるから放っておけと答えた。そのうちに女が口にしなくなったから、終わったことだと思っていた。  気がついたのは、女が書置きをして出ていった後だった。心療内科の診断書が添付されていた。諦めたのは自分の両親ではなく、対峙しようとしない自分に対して口を開くことを、だった。  そうやって女も壊し、人恋しさから昔馴染が開いた店に出入りするようになった。グラスの酒を舐めながらも、片隅のピアノは見えないふりをしていた。  数年経って、女と偶然に街で遭った。出会ったころのように美しくなっていた女は、また恋をしているのだと言った。自分が枯らせた花を、もう一度手折らせてくれとは言えなかった。 「ピアノを弾いてるんだ。もし良かったら聴きに来てくれ」 「ええ、いつか」  そんな会話で別れた。男がピアノの蓋を開けたのは、その晩のことだった。  俺の音を聴け、俺がいることを忘れるな。ピアノに叩きつける指は、男の叫びだった。女がいつか店の扉を開け、男の叫びを耳にするかも知れない。そうすればまた、以前と同じような日々が訪れるような気がしていた。  が、女は来なかった。風の噂で、女が新しい恋を得たことを知った。  結婚式を遠くからでも見たいと申し出たのは、自分からだった。披露宴に参加することはできないが、チャペルの隅に座らせて欲しいと。女が店に持ってきたのは、その案内だったのだ。  自分を諦めさせ、納得させるための行動だったが、意外なことに救われた。かつて愛した女が美しくなり、やわらかな顔で微笑んでいる。隣に立つ男は、新婦を庇うように寄り添っていた。ああ、あいつはもう俺のせいで苦しんだりしないのだ。それがひたすらに嬉しかった。  もう失うものは何も持たない男は、相変わらず店のカウンターに座り、グラスを前に煙草をふかしている。気紛れにピアノの蓋を開ける日もある。  男の演奏が切なさを増すと共に、少しだけ優しさが加味されたようだと常連たちは思う。小さなバーの中の話である。  fin.
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