丘の上の洋館

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 宍倉博巳(ししくらひろみ)という、故人の顔を、私は知らない。30年以上前にこの洋館を買い取って、生涯独身で約70年の人生を終えたそうだ。仕事に関わるものは残されていない。ここを離れて入院する前に、彼自身が処分したようだ。先日引き渡しに訪れた加東さんは、父の伯父の奥さんの従兄で、法的には親族ではない。しかし、石を投げれば縁故に当たるという田舎特有の感覚で、父も私も親戚とみなされているらしい。 『あんた、こっちに引き上げてくるつもりなら、住んで欲しい家があるんだわ』 「は? どういうこと?」  大学進学を機に実家を離れた私は、その後の就職も含めると12年近く独り暮らしを続けてきた。美大の先輩が興した小さな個人事務所で、商品のパッケージデザインを担当していたが、社長である先輩と倫ならぬ関係に陥った挙げ句、会社の資金源でもあった奥様に脅され――慰謝料紛いのはした金と引き換えに、依願退職させられた。  身も心もボロボロになった私は、帰郷しようとしたのだが、電話の向こうの母の声は厄介者を追い払う口調だった。 『お父さんの遠縁の人が亡くなってね、空き家に住む人を探してたんだわ。古い建物でね、取り壊すのもお金がかかるでしょ。家賃もいらないって言うし、どうせブラブラするなら、気兼ねなくてちょうど良いじゃない』  この夏、二世帯同居している兄嫁が第2子を出産する。かつて私の部屋だった6畳間もリフォームされ、出戻りの小姑が居候出来る場所は既になかった。  爪弾きにされる荷物のように、都落ちした。親戚縁者・友人知人のいない新天地。考えようによっては、社会と距離を置きたい私には最適かもしれない。 「それに、この景色!」  2階の出窓を開け放つ。緑の大木を右手に、東向きの窓の向こうには、この街が包み込むように青を湛えた入江が見渡せる。遠く岬には、白い灯台。既に役目を終えてなお、市民に親しまれ、モニュメントとして保存されている。 「さぁ、今日も描きますか」  誰に言うとも無しに宣言して、油臭い紺のエプロンを纏う。  この館に暮らし出してから1週間。故人の遺品を処分した後、私は長らく閉ざしたままだった画材道具の箱を開いた。嗅ぎ慣れた絵の具とテレピン油の匂いが漂う。前のアパートでは壁紙に匂いが染み付くのを恐れて、ついぞ描けなかった。ここでは、遠慮することはない。また描ける。いや、描きたい。創作意欲を煽る逸材が、眼前に広がっているのだ。  午後の4時間余り、無心でカンバスと向き合う――それが新たな日課になった。
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