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丘の上の洋館
曲がりくねった緩い坂道を登り切ると、くすんだ橙色の三角屋根の先端が雑草の影から生えてきた。続いて焦げ茶色の板張りの外壁が伸び、張り出し窓の黄ばんだ枠組みの中には、クリームパンのような雲が映っている。
思いがけない日差しの圧力に、汗ばんだ額を拭った時、薫風に揺れる緑の梢が見えた。レトロな洋館を守るかのように、屋根に届く程の大木には、小判型の若葉がびっしりと生い茂っていた。
なんて立派な枝ぶりだろう。
その家の門前に佇んで感嘆する。見上げれば、木漏れ日がサラサラと私の肌に明暗を落とした。
木立を左手に見て、煉瓦塀から続く正門に埋まったインターホンを押す。建物の奥でリンゴーンと、時代がかった鐘の音が聞こえた。
「はぁい」
「杳子です。岩城直隆の娘の」
「おお、よう来た! 開いとるで、入って来んしゃい」
少し訛のある男の声に許可をもらい、門柱に嵌まった鉄柵を押す。重々しく見えたものの、少し力を入れれば、ギィ……と掠れた音を立ててすんなり動いた。
下草の伸びた玄関までの数mは、灰色の平な石が等間隔に埋め込まれているが、それも幾つかはヒビが入っている。
「お邪魔しまーす」
真鍮の丸いドアノブを回すと、カチャリ、なんの抵抗もなくドアが開く。私が来ることが分かっていたとはいえ、施錠しないなんて無用心――そう感じてしまう私は、すっかり都会に馴染んでいたのかもしれない
飴を焦がしたような褐色の床板を踏んでヒタヒタ進むと、左と奥にドアがある。右側には2階へと続く急な階段が伸びている。
「こっち、杳子ちゃん」
どちらのドアを開けるか迷っていたら、左側のドアが開いた。
「あ、すみませ……」
皆まで言う前に、一瞬見えた人影は、すぐに奥へ引っ込んでしまった。
細く開いたドアから中に足を踏み入れ――
「わぁ……」
大きなベランダの向こうの緑が鮮やかで、額に嵌まった印象派の絵画のようだ。下草の間から、白や黄色の名も知らぬ花がパラパラと覗く。そして、塀の外から見た大木の幹が一本、1対2に画面を分割していた。
「ええ景色じゃろ」
「はい……」
「2階からは、海も見えるんよ」
そう言いながら現れた中年男性は、加東さんという。彼は麦茶の入ったグラスを1つ、部屋の中央に置かれた無骨なダイニングテーブルの上に運んだ。
「あっ、初めまして。岩城杳子です」
「堅苦しいんは、ええ。暑かったじゃろ。まずは、飲みんさい」
「ありがとうございます」
勧められるまま、テーブル同様、愛想のない木の椅子に腰掛けた。氷抜きの麦茶だが、ひんやりと喉を滑り落ちる。そういえば、外気を遮断した室内は仄暗くも、適度な湿度を蓄えて、肌に心地良い。
「ここにあるモンは、好きに使ってええで、よろしく頼むわ」
「はぁ……あの、宍倉さんの私物は」
「男物じゃけ、いらんモンは捨ててええ」
「でも、遺品とか」
「いらん、いらん。親しいモンものうなったから、気ぃ遣わんでええよ」
ものの15分も経たずに、加東さんは他県の自宅に戻った。これから電車を乗り継いでも、帰宅は夜になるという。
坂の下に消えていく赤いゴルフキャップを見送って、家の中に入ると施錠した。今日から、ここが私の住まいだ。
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