序章

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序章

 夢を見ていた。  とろりと濃い闇の中。響く(ささや)き声。    ――黒い帽子がきたりて  ――もんじゃになりて鍵を求むる  ――(いと)しい姫ごぜゆきつるえ  ――影を求めてさすらゆる    不意に、誰かに呼ばれたような気がして慌てて顔を上げた。 「――――!」  現実に引き戻され訳が分からず、驚いて辺りを見回して小さく息を吐く。 (電車の、中か……)  車内は半分ほどが空席。  レールの上を滑る心臓の鼓動のような規則的な揺らぎが心地よい。  いつの間にか居眠りしていたようだ。  さっき聞こえた声は車内アナウンスだったのだろうか。  顔を上げてぼんやりと流れる車窓を眺め、流れる変わり映えしない景色の上に映りこんだ姿に思い出した。 (ちゃんと持って来たよね?)  膝の上に置いたカバンの中から引っ張り出したのは、手のひらに収まるほどの小さな鏡。 (これを手に入れてから変な事ばかり……)  ずしりと重い五弁の花びらを模したような形のそれ。鏡背(きょうはい)にはびっしりと細かな彫刻が施された豪華なアンティークの鏡。  少しくすんで鈍く光る鏡面には憂鬱そうな顔の自分が映っている。  不意に、鏡面の中で黒い人影が動いた。 「――え?」  驚きで声が漏れた。背中は車窓だ。誰かが映り込んだのではない。  再び覗き込んだ鏡面に鋭く息を飲む。  ――驚いて鏡を取り落としそうになってしまった。  鏡面が、漆で染めたように真っ黒に変色している。  否、それは染まっているのではない。  真っ黒な人が、映っていた。 (まただ……!)  背筋が冷たくなるのと同時に周囲の雑音が遠ざかる。  そのまま意識が飲み込まれかけて、電車のアナウンスに現実に揺り戻された。  スピードを緩めた電車は駅に滑り込み、甲高いブレーキ音の後にがくんと軽く揺さぶられて停止した。  ドアが開き、響いたアナウンスが目的の駅名を告げる。  一瞬ためらい、鏡をバックに押し込んで立ち上がった。  鏡の中――映っていたのは自分ではない。 (一体なんなのよ!)  ホームに降り立つと息苦しい熱気が体を包み込む。  季節は秋に移ろうとしているが、空気は真夏の余韻を引きずったまま。  人の流れに押し流されるように改札へ向かって歩き出した。
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