桜とあやめ

1/1
2人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
 桜の一家は、お父さんの転勤で、東京から引っ越してきました。妹の真亜子が生まれたばかりで、お母さんは子育てに忙しく、桜は今までの様にかまってもらえなくなっていました。  引っ越してきたばかりの頃、桜が社宅の立派な門の中から外を見ていると、 三人の子供達が通りかかりました。一人は、隣の家のあやめでした。ガキ大将のあやめは、二人の子分を連れて、新しく引っ越してきた家を偵察にやって来たのでした。門の中から三人を見つけた桜は、気恥ずかしくなって思わずさっと門の扉を閉めました。社宅と言っても、門だけは立派で分厚い扉が付いていたのです。  扉を閉めてしまってから、桜は後悔しました。まだ友達もいないこの土地で、友達が欲しかったからです。桜は、重い扉をそうっと開けてみました。その時、あやめは右手に持っていたかわらを、桜に向かって投げつけたのです。かわらは、桜のおでこに当たって、桜の目の前は真っ赤になりました。そのまま倒れてしまった桜を残して、三人は、蜘蛛の子を散らすように逃げて行きました。  その声で、中から出て来た母親は、血をだらだら垂らしている桜を、すぐに病院へ連れて行きました。傷は大したことは無かったけれども、桜は、友達になりたいと思った相手に怪我をさせられて、茫然としていました。まだ幼稚園に上がる前の桜には、自分が友達になりたいと思った相手から、なぜそんな仕打ちを受けるのか訳が分かりませんでした。その上、病院から戻ると、会社から帰って待ちかまえていた父親にえらく怒られたのです。 「お前は相手にかわらをぶつけられるまで、ばかみたいに突っ立っていたのか」  違うのです、お父さん。桜はただあやめと友達になりたかっただけなのです。なのに、相手がいきなり桜めがけてかわらを投げつけてきたのです。でも、まだ幼い桜には父親に逆らってそう説明することはできませんでした。父親の思い込みや偏見による叱責に、反論していくだけの言葉も知らなければ、経験もありませんでした。ただでさえ口答えをすると、父親はもっと激しく怒るのです。じっと上目遣いに父親の顔を見ているだけでした。  それから、父親は、頭に包帯をぐるぐる巻きにした桜を引きずるように従えて、隣の家に怒鳴り込むと、一悶着を起こしたのです。あやめの両親は、怒鳴り散らす桜の父親に相当困惑した様子で、 「子供同士のけんかに親が口を出すのはおかしい」  等とつぶやいていましたが、とうとうあやめの腕をつかむと、もう片方の手で無理やりあやめの頭を抑え込んで謝らせました。桜は、といえば、血の気のひいた紙のような白い顔で、ふらふらしながらずっと父親の陰に隠れていました。  でも、小さい子にとって家が近いというのは、やっぱり友だちになる絶好の機会なのです。いつの間にか桜とあやめはいっしょに遊んだり喧嘩したりする仲になりました。  その年も残り少なくなったある日、桜が家の前でひとりで遊んでいると、父親が珍しく何かお土産を持って会社から帰って来ました。 「お帰りなさい、お父さん」  桜が言うと、お菓子のいっぱい詰まったクリスマスの長靴を、桜に手渡してくれたのでした。普段怒ってばかりいる父親が見せた優しさに、桜は有頂天になりました。  桜は、そのいい匂いのする銀色に輝く長靴を、そっとのぞいてみました。赤や青や黄色のラムネが見えました。金色や銀色の包み紙に包まれているのは、キャンデーでしょうか、チョコボールでしょうか。桜が中身のお菓子を夢中になって眺めていると、いつの間にかあやめと二人の子分が、お菓子の匂いをかぎつけたかのようにやって来ていました。  「桜ちゃん、それなあに?」 あやめが家の前の溝をぴょんと飛び越えると、桜の座っている土手の上にやって来ました。 「クリスマスブ-ツ。お菓子が入っているの。お父さんのお土産」 桜が嬉しそうにそう言うと、 「どんなお菓子?」  あやめはしゃがんで、銀色の長靴の中をじろじろと覗き込みました。 「あっ、赤いラムネ」 「うん、黄色いのもあるよ。青いのも」 「赤いの、食べてみようよ」  そうあやめに促されて、桜が赤いラムネの包みを開けると、外側の赤いセロファンの中から、白いラムネが現れました。 「なーんだ、外側のセロファンが赤いんだ。中は白いラムネじゃない」 あやめは、それでも白いラムネを、いっぺんに三つも指でつまんで口に入れました。桜もおずおずとラムネを、ひとつつまんで口に入れました。甘酸っぱいさわやかな味がしました。  「あんた達も、食べなよ」 あやめはそう言うと、いつの間にか隣に座っていた二人の女の子達に、残りのラムネを渡しました。そしてまた桜に言ったのです。 「青いのも食べてみようよ」 「でも、同じだよ。中身はきっと白いラムネだよ」 「ううん、違うよ。きっと青いラムネが入っているんだから」  あやめは、勝手に長靴の中に手を突っ込んで、青いラムネを取り出しました。青い包み紙をむく様に開けると、中のラムネはやっぱり真っ白でした。 あやめはラムネの包みを二人の女の子にそのまま渡すと、 「じゃ、黄色いラムネの中はほんとに白いか確かめてみようよ」 と言って、当然の様に黄色いラムネを手に取って包み紙をむきました。 「なーんだ、やっぱり白じゃない。つまんない。じゃ、次はこのきれいな銀紙と金紙に包んであるのを食べてみようか」  あやめは何の遠慮もなく、桜の抱えている長靴の中からチョコボールを取り出して、女の子達に上げました。そして、自分も金紙をむくとぱくっと口に入れました。  桜は、長靴を抱えて持っているだけで、実際は誰の長靴だかわからない有様でした。とうとう、桜は、あやめと二人の女の子達に、長靴の中のお菓子をあらかた食べられてしまいました。  ふと気が付くと、辺りはもう薄暗くなっていました。(叱られる)と思って、桜が慌ててほとんど空っぽの長靴を抱えて家に入ると、アル添酒の匂いがふわーっと漂ってきました。父親がひとり、ちゃぶ台に向かって不機嫌そうに晩酌をしていました。桜がそうっと父親の後ろを通って奥へ入ろうとすると、父親は目ざとく桜の抱えている長靴を見とがめました。 「もう全部食ったのか?」 「ううん、あやめちゃん達に上げたの」  と桜が答えると、父親はたちまち声を荒らげました。 「ばか野郎。自分のもらったプレゼントを、まだクリスマスも来ないうちに全部人にやるやつがあるか」  ここで泣いたらもっと叱られる、と思った桜は、うつむいてぐっと奥歯をかみしめました。泣くのをこらえて上目遣いで父親の顔を見ると、 「親に向かってなんだ、その顔は」  父親はそう言いながら台所にいた母親に向かって、酒のお代わりを催促しました。 「おーい、こいつの仏頂面を見ると、酒がまずくなる。もう一本、持って来い」  いつも、その後母親も不機嫌になって、きっと喧嘩が始まるのです。こうして、楽しかるべき一家団欒は、修羅場と化すのでした。桜は、家が嫌いでした。だから余計、友達がとても欲しかったのかもしれません。  桜の家は社宅で広い庭があり、草花が生い茂っていました。春のある日、桜は、虫取り網を振り回して遊んでいました。草花の上を、シジミチョウやモンシロチョウがひらひらとたくさん飛んでいて、面白い様に蝶々が取れました。でも、持っていた虫かごが蝶々でいっぱいになると、なんだか急に虫取りがつまらなくなってしまいました。そこで、虫かごのふたを開けて蝶々をみんな逃がしてやりました。  その時、あやめが遊びに来ました。 「桜ちゃん、遊ぼう。何やってんの?」 「モンシロチョウを捕まえていたの。でも、もうつまんなくなっちゃったか              ら、お終い」 「なら、お家を見に行こうよ。面白いよ」 「あやめちゃん、行ったことあるの?」 「うん、でも、また行ってみたいんだ」  二人は、桜の社宅の近くにある家の新築現場に歩いて行ってみました。造りかけの家が三軒あって、トンカントンカンとにぎやかな音がします。しゅっ、しゅっとかんなで材木を削る音や、木のいい匂いがそこら中に溢れていました。壁のまだ無い、柱だけでできた二階建ての家でした。大工さんたちが何人も働いていて、活気に満ちていました。  「ああ、面白そう」  と、桜が言うと、あやめが、 「中へ入ってみようよ。もっと面白いから」 と言うので、二人はそっと家の中に入って行きました。家の中は、ぷんぷん木の匂いがしました。材木やら、釘やら、壁土(かべつち)なんかがあちこちに置いてあって、足の踏み場もない程でした。その中で、大工さんたちが脇目も振らずに働いていました。  「ほら、ここが階段。二階に上がれるの」 あやめが、階段の下から上を見上げながら言うと、今にも上っていこうとしました。 「待ってよ、あやめちゃん、二階に行ったら怒られない?」 「大丈夫よ。一階に居たって誰も何も言わないじゃない」 そういうとあやめは階段を上り始めました。あやめが二階に行ってしまって、自分一人が取り残されたら怖いと思った桜は、慌てて後ろから付いて階段を上って行きました。  あやめの後ろから二階にたどり着くと、そこは壁の無い大きな部屋でした。柱と柱の間から光がいっぱいに差し込んでいてとても明るく、わくわくしました。それに大人は誰も居ませんでした。 「わーっ、明るい。広いわねぇ。ここだったら遊べるねぇ。何して遊ぶ?」 あやめは、待っていましたとばかり、(すみ)の方へ歩いていきました。桜も付いていくと、あっと驚きました。そこには床に穴が開いていて、地面が見えるのでした。  「何、これ?」 「大工さんが使うお便所だよ。ほら、穴の周りにお便所がついているでしょ」 確かに和式の便器が、床に空いた穴にはめ込んでありました。下をのぞくと、茶色い土管が地面に立ててありました。 「ほら、大工さんは、こっちからあの中におしっこをするんだよ」 あやめは、便器のすぐそばにしゃがんで、そばに落ちていた材木の小さな切れ端を一つ拾って、土管の中に投げ込もうとしました。けれども、木っ端は、こつんと土管の縁に当たってはじき返されてしまいした。  「うまく入んないなあ。もう一度やってみよう」 あやめはもうひとつ木っ端を拾って、土管の穴めがけて落としました。木っ端はまた土管の縁に当たってはね返されてしまいました。あやめはその場に座り込むと、もう、躍起になって木っ端を拾っては土管の穴に向かって落とし始めました。  桜は、高いところから下をのぞき込むのが怖いので、金隠しの後ろに回り込んでそっと座りました。するとその時、どこからともなくひそひそ声が聞こえてきたのです。 「頭の上からおしっこかけられても嫌なのに、今度は木っ端をぶっつけられる。いやだ、いやだ いやだ」  桜は、えーっと思って周りを見回しましたが、あやめがむきになって木っ端を土管めがけて落としているだけです。なんだ、気のせいかと思ってこわごわ下を覗き込むと、 「今度は、木っ端をぶつけられる、いやだ、いやだ、いやだ」  と、どうやら声は下から聞こえて来るようでした。  あやめがもう一つ木っ端を拾って下に落としました。その時、桜の目の前からあやめが消えて、気が付くとあやめがお便所の穴にはまって落ちそうになりながら、便器に両腕でしがみついていました。余り勢いよく木っ端を土管に投げ込もうとしたので、バランスを崩して穴の中にはまってしまったのです。両腕でとっさに便器にしがみつかなければ、真っ逆さまに下に落ちていたところでした。  「あやめちゃん」  桜はそう叫んだきり、頭の中が真っ白になりました。それから、ふとさっき聞いた声の主達が、あやめを土管の中に引きずり込もうとしているのではないか、という考えが浮かんできました。桜は、自分も土管に引きずり込まれるかもしれないと思うと恐ろしくなって、急いでその場から逃げ出しました。桜は、心の中で、『助けて』と叫びながら、階段を降り、一階を駆け抜けて道路に飛び出すと、懸命に走りました。  息が苦しくなって思わず立ち止まった時、桜は、このまま一人で帰ったらまた怒られると気が付きました。(だめだ、このまま帰ったら怒られるに決まっている)桜は怖くなって、くるりと向きを変えると、また新築の家に向かって走って行きました。(あやめちゃんは、もう土管の中に引っ張り込まれちゃったかしら)土管の中から聞こえたお化けのような声も怖かったけれど、父親に怒られる方がもっと怖くて、桜は、家の裏の土管の所まで大急ぎで走って行きました。  土管の傍に立って上を見上げてみると、あやめはまだ便器にしがみついていました。その顔はもう真っ赤になって、髪の毛が逆立っているように見えました。この時になって、桜は、ようやく早くあやめを助けなければ、と思ったのです。急いで一階に居た大工さんに助けを求めると、大工さんは大慌てで二階に駆け上がって行きました。桜も大急ぎで大工さんの後を追いかけて行きました。二階に着くと、便器から大工さんに助け出されて、あやめはまだ真っ赤な顔をして、わあわあ泣いていました。  何日か経って桜は、今度はひとりで新築現場の家に行ってみました。怖いもの見たさで、階段を上って二階に行きました。二階は相変わらず明るくて広々としていました。桜は、真っ直ぐお便所があった隅の方に向かって歩いて行きました。便器のあった辺りは今はすっかり平らになっていて、上に何枚も新聞紙がかぶせてありました。子供が遊んで下に落ちるといけないと、便器を取り外し、板を渡して穴をふさぐと、その上を新聞紙でおおってあったのです。 「なあーんだ、もう、お便所なくなっちゃったんだ」  桜は何だかほっとしました。  その時、壁がまだ無い家の中に、外からふーっと風が吹き込んできました。そして、床に敷いてあった何枚も重ねた新聞紙が、ふわっと浮き上がりました。桜は、新聞紙の隙間からたくさんの目が、こちらを見ているのに気が付いたのです。 cd8f6104-f8b7-41e3-bd42-231346b18aa2 「ほら、あの子だよ」 「いや、あの子は金隠しの後ろに隠れていた子だよ」 「なんだ」 「少し脅かしてやろうか、また悪さしないように」  風が通り過ぎると、新聞紙がまた元に戻って、たくさんの目は見えなくなりました。  桜は、胸をどきどきさせながら、階段を走って下りるとそのまま外に飛び出しました。お便所の下の土管の傍を通り過ぎようとした時、土管から白い手が何本もすーっと自分の方に向かって伸びてきました。桜は恐ろしくなって、死に物狂いで家に向かって走り続けました。それから、もう二度とその新築現場に行くことはありませんでした。                 完
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!