E02 アトリエデイジーはひるまない

1/1
前へ
/50ページ
次へ

E02 アトリエデイジーはひるまない

  ――二〇一八年春、時は選ばれる。  二〇一八年四月八日の日曜日から事件は始まり、次に、二十二日の日曜日も狙われ、今回で三度目の五月六日、大型連休最終日で日曜日に当たる書き入れ時ばかりアトリエデイジーは損害を被る。  怪盗ブルーローズは、アトリエデイジーに来る度に故意に停電させる。  今回こそは、突然の集中豪雨のせいで電気が落ちたことにして欲しいと、ひなぎくと黒樹は、見回りをしている。  まだ、午後三時だったが、風雨も強く、閉館時刻を早めたばかりだった。  Eカップを揺らして、ぱたぱたと駆けて来る。   「パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ファン・ネポムセノ・マリア・デ・ロス・レメディオス・クリスピン・クリスピアノ・デ・ラ・サンテシマ・トリニダード・ルイス・イ・ピカソ、つまりはマラガ市役所出生届による名の『ピカソ』のキュビスム一連の作品展示コーナーを見てください……! キュビスム原点の『アヴィニョンの娘たち』さえなくなっていますわ! プロフェッサー黒樹」  黒樹は、こんな状況でも突っ込まざるを得ない。 「早口だな、ひなぎく! あー、すまん。思わず呼び捨てになってしまった。ひなぎくちゃんね、はいはい」 「呼び捨てでも構いませんよ」  ひなぎくは、ぷりんっと髪を揺らす。 「いや、お嬢ちゃんにそんなガサツなのは似合わないですよ」 「だからさ、ひなぎくちゃん。『ピカソ』の名前が長いよって突っ込みを入れてもいいかい?」  黒樹は、ひなぎくが暗がりで怖い気持ちにならないよう、にこやかな声音にした。  ひなぎくも大人だ。  それ位は察しがつく。 「プロフェッサー黒樹、何事も正確にです。『ピカソ』と呼ぶのは、あだ名のようですわ」  お堅い所もあるひなぎくは、やんわりと『ピカソ』の長い名前を主張した。 「ひなぎくちゃん改め、フルネームで、白咲ひなぎくちゃんと呼んで欲しいのかい。俺のことは下の名の悠で呼んでくれないのに。よよよ……。これで、夫婦(めおと)になれるのか?」  黒樹の顔を覆って泣いたふりメソメソは、暗がりでなくてもパンチがないらしい。  するりとかわされる。 「あらあら。それより、目を凝らしてどんどん館内を探しましょう」  黒樹は、可愛い子をからかいたくてたまらなくなる。  黒樹のあたたかい息を耳元に近付け、ひなぎくの持っていた懐中電灯ごと今がチャンスとばかりに逞しい腕を覆い被せる。  すると、ひなぎくは手の震えを隠せなくなる。 「こう暗くてもね、漆黒の瞳がメガネの奥で美しいく輝いているのが分かるよ。この長い緑の髪も素敵だ」  黒樹にくすぐったく囁かれる。  瞳を見つめられ、髪を()かされる。 「ありがとうございます。瞳は父親似で誇らしく思っています。髪は母親から譲り受けましたが。ん……。プロフェッサー黒樹、そうやって遊ばれると困りますわー」  得意の困ったわでお断りしてごまかしたが、黒樹には通じない。 「ひなぎくちゃん。中々、可愛いじゃないか」  か細い娘が、後ろからぐいっと抱き寄せられた。  体と体がまるで溶け合う程に。  黒樹は、これ幸いとEカップを肌に感じだ。 「あの……。プロフェッサー黒樹……。早く、アレを探さないと」  ひなぎくは、肩を小さく震わせていた。  ひた隠しにしている想いを分からせたくないから。 「こっちを向いて。何年経っても俺からはキス一つさせてくれないのだから」    ひなぎくは、黒樹に振り向かせられ、彼越しに向こうの窓を見た。  窓が瀧に支配されていように流れる雨の中、黒樹はゆるりと顔を寄せて来た。  ひなぎくは、心の臓がリズムをみだし小刻みに打ち始めたのを感じた。  その刹那、稲光がドンと来て目が眩む程痛かったので、さっと顔をそむけた。 「神様に叱られますよ」  暗がりの中、ひなぎくは、頬を赤らめた。  心の中で顔を見ないで欲しいと唱える。 「え? また、神様の話?」  冷やかしではないが、黒樹は無神論者だった。 「信仰の自由ですよ」  まったりとしたひなぎくに戻った。  黒樹も本来の仕事を思い出した。 「青いバラのメッセージは見つかったかい? ひなぎくちゃん」  黒樹は、少しウエーブのかかった茶の前髪から熱い眼を光らせ、怪盗ブルーローズが来た時のいつもの台詞をこぼした。 「……いいえ。まだです。なくなった『ピカソ』のレプリカは、もう持ち出されてしまったでしょう。その証拠になる一輪の青いバラを探しています。あるとすれば、このキュビスムのブースのはずですから」  ひなぎくは、黒樹に抱かれたまま捜索を続けていた。  この子のそんな面白い所が気に掛かると黒樹は笑いたくて涙をこらえた。   黒樹の少し長い髪がくすぐったくても、相も変わらず、ひなぎくは気にしないようにしている。  集中力は半端なことではない。 「多分、代表作を逃さないはずです。ここは、『ピカソ』の愛人ドラ・マールをモデルにした『泣く女』のあった所です」  ひなぎくが懐中電灯で照らそうとした時、雷がバリバリと光りを大きく放った。  一瞬、『泣く女』のレプリカの掛かっていた所を照らす。 「見えました。また盗まれてしまいましたよ。ほら、怪盗ブルーローズが盗んだ印の青いバラが一輪、置いてあります」  すると、すっと黒樹がひなぎくから離れ、青いバラを懐紙で拾った。 「何の為にこんなことをするのだ。説明して欲しいな、怪盗ブルーローズ」  ドンと後から来た雷の激しい音に、黒樹の抗う声は消し去られる。  ひなぎくは、青いバラに触れ、トゲに血を濡らせた。
/50ページ

最初のコメントを投稿しよう!

8人が本棚に入れています
本棚に追加