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痺れる紅潮
彼女はピンクがかった髪を指先でくるくるやりながら。
「いいか? この宇宙の時空はあらゆる可能性を内包してたんだ。例えば分かれ道に差し掛かったとして、お前が右の道を選んだとするだろ? そのとき同時に、選ばなかった方のお前も枝分かれして生まれてんだ。左を選んだお前が別な時空に存在してるってこと。ただ両方は互いに平行に並んでてどこまでも混じり合わない」
「パラレルワールド?」
「よく知ってんじゃん。ああ、SFはドーテーの必修科目だもんな」
いたずらっぽい笑みを浮かべる。
僕ももうだいぶ慣れてきた。
「あのさぁ」
「はは。とにかく、そうやってあらゆる事象に関して、可能性の分だけ平行世界ってのは存在してたんだ。た。過去形な」
「じゃあ収束って……」
彼女はパスタみたいに髪を絡ませたままの指を、目線の高さまで上げてみせる。髪が水平に引き上げられて顎のラインが隠れた。
毛髪はそれぞれ途中でたわんでいて、指先へと向かうにつれ密集して束になっていく。
髪の紗幕の向こう側から、僕のハッとした顔が見えたのだろう。
「そーゆーこと。たぶん実際はもっと撚り糸みたいな感じなんだろうけどな。いくつもの時空が一本に撚られてく。先に行けば行くほどさ」
「……で、なんで校長が?」
彼女は指にからませていた髪をほどいた。パラパラと重力に引かれて、口元まで覆っていた幕が開く。
「二つの時空に別々に存在してた校長が、一つの時空に同時に存在しちまってるってこと。今日が来るまでのどこかの時点で、時空同士がわずかに交差してんだよ」
にわかには信じがたかった。いや、校長が増えるのも信じられる話ではないのだけれど。
「やっぱ変だよ。いきなり校長が二人現れたら、先生たちだっておかしいって思うでしょ?」
「そういうもんなんだよ。なんだったかな、タイトル忘れちまったけど、ふっるい映画でさ。同じ時空に同じ人間が居合わせたら矛盾になってしまうから片方が消えてしまう、なんて言ってたのがあるんだけど」
思い当たるタイトルは浮かんでいたけど、敢えて黙っておく。
どうせまたからかわれて話の腰が折れるだけに違いない。
「実際は、時空の中に生じた矛盾が矛盾にならないよう、理屈のほうを変えようとする。そういう、正常であろうとする力が働くんだ」
なんとなくわかるような、わからないような。
腕組みして、眼球を斜め上に向けながら、なにかしら理解に役立ちそうな記憶をさがすのだが、まったく見つからない。
「最初は変だなって思っても、現実として存在してる以上は受け入れざるを得ないって感覚が働くんだよ。校長は最初から二人だった。そういう前提に立って、状況が成立するように振る舞おうとする」
「だからって、二人で式にでなくても」
「どっちも正しい校長なんだから、どっちも出てもらわなきゃってなっちまうんだろうな。でもさ、どっちも卒業証書を渡すんだったら二人いる必要性がないだろ? だから、準卒業証書なんてものを持ち出してきた。恐らくこんなとこだろうな」
なんだか、狐につままれたような気分だ。
伊奈さんの言葉を信じないわけではないけど、心の片隅には、またドッキリでしたと言ってもらいたい気持ちがあるというか。
それぐらい、なんだかよくわからない。
「じゃあ、三人に増えたってことは、もう一つ時空が重なったってこと?」
「そゆこと」
「でも、僕らは過去に戻ってるんだよ? なのに」
「ウチらが戻れたって、時空の撚りは戻らないってこったろ。先端側の撚りは問答無用で強くなっていく。撚れれば撚れるほど、後ろ側の間隔が狭まるってのは直感的にもわかるだろ?」
わからないではないけれど、どうしても頭が追いついていってる感じがしない。もはや、失礼ながらあんまり成績はよさそうに見えない伊奈さんが、さっきから賢そうな発言を連発していることの方に興味が向いてしまっている。
「伊奈さん、頭いいんだね……」
「はあ? お前さあ、ちょっとぐらい自分で計算してから物言えよ。仮にこの後に30年ぐらい生きるとしたって、1000回繰り返したら3万年だぞ?」
「あ、ほんとだ。3万……」
数字にくっついてきた途方も無い単位があまりにピンとこなくて、僕は腹を抱えて笑いだしてしまった。
「おい、笑える要素ねーだろ」
少し苛立ったように言う彼女をよそに笑い転げる。
こういう、自分でも出どころがわからない笑いに限って、一度火がついてしまうとなかなか収まらなかったりするものだ。
ただ頭の片隅では、3万年以上を過ごすことについて考えていた。
3万年も昔に戻ったら石器時代だ。どれだけ途方もない時間だろう。
まったく言う通り。知識も技術も、富も名声も、しぶとく努力さえすれば手に入るに違いない。
でもその間、ただ一人、タイムリープを繰り返し続ける……。
自分だったらどうだろう。
彼女の話によれば、未来に向かうほど可能性はなくなっていくらしい。選択肢が消えていくのか、あるいは何を選んでも結果が決まってしまっている状態だろうか。
どちらだとしても、ひどく虚しい。
そもそも、好転する見込みのない人生を儚んで身を投げたというのに。今度は、途中で好転しようが悪化しようが、結局は一つに定まってしまうという。
しかも終わりまで来たらまた最初から、同じような人生に向かっていかなきゃならない。ひたすらそれの繰り返し。
たかが知れてるどころの話じゃない。永遠に同じ漢字ドリルをやらされるようなもんだ。
3万年。それも数えていたぶんだけ。
一人だけ異質だから淋しいとか、きっとそんなありきたりな感傷では足りないだろう。
ドッキリが念願だったと彼女は言った。
そんな企みにしか愉しみを見いだせないまま、繰り返し今日に戻りつづけていたのだとしたら。
きっと僕では、おかしくなってしまうんじゃないかな。ひたすら苦痛が続くだけの時間に耐えられるなら、そもそも飛び降りなんてしちゃいない。
どうして折れずにいられたんだろう?
言葉どおり、負けず嫌いだけで?
そんな人間っぽい感傷なんてとうに見切りをつけてしまったとか?
どっちにしたって、ちょっと悲惨すぎやしないか?
自分でもどこで切り替わったのかはわからない。
気づけば僕は泣いていた。大声で咽びながら。
「なんなんだよ。話が衝撃すぎてイカれちまったか?」
ふるふると首を振る。呼吸を整えながら、鼻水と涙を前腕で拭った。
「い゛や。自分ほんと、ドーテーだなって」
「はあ?」
「伊奈さんの気持ち、まったく想像つかなくってさ。3万年。どんな気持ちだったのか、まったく……」
どんな顔をしてこっちを見てるんだろう。
顔を上げられない。
「なに? 同情しようとしてるわけ?」
「……正直、自惚れてた。理解できるんじゃないか、止められるんじゃないかって。100分の18だと思ってたからさ。それが3万分の18だったなんてさ。いきなり無茶苦茶すぎて」
「てかお前さ、まだ止める気なの? あたしもタイムリープしてんのに?」
「それは……」
大事なことだと思った。その理由もあやふやなまま、僕は立ち上がる。意を決して、彼女を見据えた。
抱えた膝を枕にして、ぼんやりと床を眺めている。
「止めるよ。地面に落ちたら伊奈さんは死ぬんだ。潰れて、目玉が飛び出して。本人はタイムリープしてるかもしれないけど、実際は」
「やっぱり!」
「え?」
「そうかそうか、よしよし。いや、ずっと仮説だったんだけどな。お陰ではっきりしたよ」
「……なにが?」
「タイムリープっつてもよ、体がワープしてるわけじゃない。飛んでるのは意識の方なんだよ。この時空で死んだ時点で、ごく近くにある別な時空に意識がシフトしてるってこと」
「よくわかんないけど、何か、状況を変えるヒントだったり?」
「しねーよ。説明がついただけ。ま、これではっきりしたな」
よっと一息に立ち上がると、スカートの裾を払う。
すたすたと金網へ近づいていく。
「ちょ、ちょっと! 聞いてた? 死ぬんだよ、ぐちゃぐちゃになって」
「オメーこそ聞いてなかったのか? あたしは、ちゃんと死ぬの」
「見たくないんだよ!」
彼女は緑の金網に右手を掛けたところで止まった。
そのままこちらを振り向く。
冷たい風が吹き抜けた。
「なら見なきゃいいだろ。回れ右して帰んな」
「ちゃんと説明してよ。死ぬことと、飛び降りを繰り返すことと、何の関係があるの?」
舌打ちが聞こえる。
「全部やりつくしたんだよ。ぜーんぶ。聖人扱いもされたし、目を覆いたくなるような悪事もやった。……唯一だよ。唯一まだこの世から消えたことがない。それはさ。生きてないのと同じだろ?」
そうなのかもしれない。でも、そうじゃないと思う気持ちが確かにわだかまっている。なにかが間違っているはずなのに、その正体をあらわす言葉がどうしても見つからない。
「ありがとうな」
「……え?」
「最近はさ、眠気で動けなくなるまで、戻っちゃ飛び降りてを繰り返してたんだよ。たまたまポンとループから抜け出る確率はさ、ゼロに近くてもゼロじゃねだろってさ。それぐらいしか手がなくてな。でもさ、無数に存在するあたしの一人が確実に消えてるってわかった。お前のおかげだ」
「そんな……」
「あとは繰り返すだけだ。何億回でも何兆回でも、それ以上でもな」
屍の山が目に浮かぶ。ぜんぶ彼女の。そして相似形で僕の。
胃のあたりが小刻みに震えてしまう。
「おいおい。そんな顔すんなよ。希望の光が見えたんだぜ?」
ニカッっと笑いながら、親指を立ててみせる。
希望? なにかが違う。どうしてその何かが言葉になってくれないんだろう?
今になって後悔が襲ってくる。最初に自分を投げ出してさえいなければと。もう僕には、ワケもなく命が大事だなんて言う資格がない。
「もういいか?」
「……ダメだよ」
「あたしのことはいいから。お前は帰って、人生楽しんできなって」
「それで。伊奈さんと同じ結論になって、なんの意味があるの?」
「……ガキかよ。お前、マジいっぺん童貞すててこい」
「そしたら、やめてくれるの?」
音にはなっていなかった。でも口の動きだけで「うっざ」とわかる。
なのになぜか、含みの有りそうな笑みを浮かべながら、後ろ手に組んで一歩ずつ近づいてくる。
「そんなにあたしのこと心配してくれるんだぁ?」
「し、心配っていうか……」
彼女はいきなり間合いを詰めてきた。まだ多少の距離はあったはずなのに、気づけば僕の耳元あたりに頭があった。半身気味に、体を密着させてくる。
「じゃあ、……なに?」
「ちょ、伊奈さん? どうしたの?」
腰が引けてるのに、後ろへ下がれない。ベルトを掴まれている。
「やらせてあげよっか?」
耳元に囁かれた。
吐息の触れた辺りに、痺れが拡がっていく感覚。思考まで麻痺してしまう。
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