ホッとして変調

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ホッとして変調

 にわかには意味を汲み取れなかった。  きょとんとしている僕を尻目に、彼女はまた外の方に向き直る。 「ま、あんたと話せてちょっとだけ楽しかったよ。ごめんな、ドーテーって当てちゃって」 「いや待ってよ。ちゃんと死ぬってどういう」 「次もし覚えてたら教えてやるよ。じゃな!」  伊奈さんは小さく手をあげて挨拶をすると、そのまま倒れ込むようにして落ちてしまった。  まるでガラスのコップを手から落としたみたいだ。  僕が声を上げる間もなく、手を伸ばす猶予すらもなく、ふわんと落下していく。アスファルトに叩きつけられた彼女の頭部が、赤い破片を撒き散らした。  何も頭に浮かんでこない。  ただ、胸だけが苦しい。  眼球のせいだ。不自然な曲がり方の首でも、繰り糸の切れたような手足でもない。ひしゃげた顔面から外れて垂れ下がっている眼球が、あんなにも感情で満ちたエネルギーの塊みたいだったものが、もう臓器の一種であること以外には何ひとつとして主張していない。あんなものが彼女のあの瞳だなんて、とても信じることが出来なかった。  それでも、いつだって目の前の現実が正しくて。きっと胸の中ってやつが勝手に心象の方を現実に合わせようとこねくり回しているせいで、こんなにも息が詰まっているのだろう。  僕は縁につま先を揃えた。  タイムリープなんてやっぱり嘘っぱちなんじゃないか?  そんな気がしてくる。  ついさっきまで、どこかの時点まで、夢らしくない夢を見ていただけで、ここから覗き込んだ先で散っている彼女の姿が本当の現実。少なくともむごたらしさは、タイムリープなんてよりよっぽど現実らしい。  もう時間は巻き戻らないかもしれない。  そう考えると足が震える。  僕の死じゃなく、彼女の死が怖い。  ふと思いついてカニ歩きで位置をずらした。  もし時間が戻らなければ、僕の体も砕け散る。体が風で流されたり、思いのほか飛び散ったりして彼女にぶつかりでもしたら。死を無かったことに出来ないばかりか、今以上に汚してしまう。  大きく深呼吸をする。  飛び降りなんて本当に、まったく褒められた行為じゃない。百聞は一見にしかずだ。それがわかっていながら、なんとなく誇らしいような気持ちになっている僕は、やっぱりどこかおかしくなっているのだろう。  ぐっと目を瞑って一歩を踏み出した。  全身がぞわりと粟立つ。  冷たい何かが僕を地面へと引っぱっていく。  とても死んでしまうなんて思えない人が死ぬなんて、それこそ非現実的じゃないか。  それに比べればタイムリープなんて、どれだけ起きたって不思議はないだろ? ▽▽▽  校長は三人に増えた。  このまま繰り返す度に増えていくと思うと軽くめまいを覚えたが、こっちは証書どころじゃない。  奇異の目に晒されるのも構わずに、僕は体育館を出て屋上へ向かった。  どうやら伊奈さんの姿はないようだ。校舎の縁から地面を覗き込んでみてもそれらしい姿は見当たらない。何にせよ、まだ飛び降りていないことだけは確かだ。  ふっと息を吐いて、ようやく人心地がついた。  しかしまだ不安が消えてなくなったわけではない。  わけもわからず校長が増えてしまうぐらいだ。彼女が無事な姿をしている保証なんて何もない。最悪を考えるなら、存在そのものがなくなっているかもしれない。なにせ僕の目の前で一度死んでいる。絶対に無いとは言い切れない。  それにしても疲れた。  へたり込むように腰を下ろしてフェンスに寄りかかる。 「そりゃそうだろ」  何度かのタイムリープの中で起きた出来事を改めて思い浮かべて、そう独り言ちた。わけのわからないことだらけだ。  上半身の重みで金網がたわんでいる。  硬いながらも、背中を包んでいる感触が心地いい。  ようやく自分を支えてくれる存在に出会えた感すらある。それが転落防止柵だったというのはなんとも情けないけれど。  ぼんやりと見上げた上空は相変わらず良く晴れている。  夏の空ほど深くはない青色。冬の空ほど澄み渡っていない水色。集団からはぐれたような雲が、とりとめもなく流れていく。  こうしている分には日常そのものだ。 ――いつまでもたかが知れている日常。  滑り止めでかろうじて引っかかった大学が一つ。定員割れで誰でも入れる、名前なんてあってないような所。それだって、ひとり親の失業で奨学金をもらってバイトしながら通うようだ。  それでも行って欲しいと母は言う。  猫も杓子も大学に行くっていう世の中で、三流以下の大学に無理して通うだけの価値がどれだけあるっていうんだろう?  もうこの先は決まりきっている。  せいぜいできる努力があるとすれば、ろくでもない人生の中でそれに見合った幸福を見つけることぐらいだ。  それが人生だと言うんだろうな。世の中の大半はそうやって生きてるって。  残酷な言葉だって、わかって言ってるならまだいい。  わかっちゃないから言えるんだ。でなければ、どうして自分を主語にしないのか。  自分なんて捨ててしまえ。お前なんて価値ねぇよ。そんなのと同義な言葉にもっともらしいパッケージを付けただけ。そいつを纏えばアラ不思議。どこでも売ってるお手頃価格の労働者が出来上がり。そこら中にいくらでも転がってる幸福ってニンジンをぶら下げてやれば、せっせせっせと働いて、せっせせっせと金を差し出す。  人生を費やすまでもなく、わかりきっている事だ。  なんでわざわざ辛い思いをしてそれをなぞらなきゃならないのか。僕にはそれが理解できないし、したいとも思わない。  だから、『卒業証書』でも手に入ってたら、ちょっとは考え直そうかと思ったのは本当だ。思いがけず運が向いてくる、ってのは生き続ける上で大事な要素なんじゃないかと思う。  結局、運が向いてこないどころか、運不運すらよくわからないような状況に陥ってしまったのだけれど。 「やっぱ、天罰かな」 「そうなんですか?」 「うん……。へ?」  独り言のつもりが不意に相槌が返ってきてしまい気づくのが遅れた。  自分でも間抜けだとわかるような顔をして振り返る。   金網越しのすぐ目の前、息が掛かるほどの近くに女の人の顔があった。 「い、いいいいい、伊奈さん!」  彼女の呼気に混じった苺みたいな香りに思わずたじろいで、尻もちを付いたまま後ずさった。  フェンスの向こうで待ち人は、両膝を抱えるように屈んだまま小首を傾げている。そのつぶらな瞳をきょとんとさせながら。  少なくとも五体は満足のようだ。  潰れてしまった彼女を見ているせいか、すぐには安心ができなかった。  自分から後ずさっておきながら、今度は四つん這いでよたよたと金網に近づいていく。 「だ、大丈夫? どっか怪我とか、痛いところとかは?」 「え? いや、私は大丈夫ですけど……」  言葉の通り、手にも足にも、目にも鼻にも口にも、顎にも額にも、全てに彼女の意思が通って見える。 「良かっ、たぁぁぁぁ………」  思わず全身の力が抜けて、土下座みたいな格好で突っ伏してしまう。 「あの、何をおっしゃっているのかはよくわからないですけど、自殺はやめておいたほうが良いと思いますよ」 「……へ?」 「私でよければ、何で悩んでいらっしゃるのか、聞かせていただけませんか?」  おかしい。口調からしてあの時と違う……。
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