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命を賭して
茜色の空がどこまでも続く。
どことなく儚げなその景色は
世界を繋ぐ架け橋となって
地球の裏側まで繋がっている。
群青の空にひとつの浮かぶもの。
大きな音を立てて上空を進む。
四角く囲われたヘリポートに着陸するそれは
ドクターヘリ。
医者と患者を乗せた機体。
灯火が消えそうな命を救うために
大空をかけてゆく。
今も1人、消えゆく命を救わんと
医師たちが帰ってきたところだった。
「移すぞ」
「1、2、3」
ストレッチャーがヘリポートから離れていく。
患者が医師たちと共にERに運び込まれる。
大量出血があっても、多発骨折があっても、切断されていたとしても、一分一秒争う過酷な現場で命を繋いでいく。
そんな命の最前線で闘う者達は一時の休みすら許されない。
例えば通勤のときだとしても。
───2020 4月1日 午前8時
聖良大学病院に今日から配属される
3人の研修医たち。
そのボードがERの出席簿のところに
貼り付けられている。
既に2人はやって来ていた。
もう1人は遅刻と思われる。
センター長の相良が苛立ちを覚える。
なぜなら研修医でない正規の医師も研修医とともに遅刻しているからだ。
その医師の名を西野という。
すると、ホットラインが鳴る。
階段転落で運ばれて肝破裂を起こした患者の処置がつい1時間前に終わったところだった。
ERで勤務する医師たちに休息はない。
このアブノーマルな現状が日常なのだ。
相良が出る。
「はい、聖良救命センター」
ホットラインから救命一帯に響く音で要請を伝える。
「横浜市消防司令センターより受け入れ要請です。路上でトラックが電柱にぶつかりドライバーの40代男性が意識不明。左大腿部に変形が見られ、胸部に穿通創と刺傷あり」
相良が合図を送る。
すると、
「なお医師の同乗で緊張性気胸のドレナージが済んでいる模様です」
「医者……?了解、受けいれます」
その一時間前、
遊馬大。
この春から聖良救命センターで配属されることとなった医者。
命を救う最前線で自分の力量がどれだけのものなのかに興味があった。
今日はその初出勤の日。
8時から説明があるからERの医局に来て欲しいとの事だった。
現在7時に家を出て病院に向かうところだった。
しかし、
「きゃーー!!」
前方で女性の叫び声がする。
「……」
遊馬はその方を静かに見る。
するとトラックが変則的な走行をしていた。
幸い女性が引かれることは無かったが周りの注目の的だ。
アホらしいと思いつつまた歩き始める。
ドドーーーーーン!!!
背後でものすごい轟音が鳴ったのだ。
振り返ってみると無惨にへし曲がったトラックがあった。
煙を上げてタイヤも曲がっている。
電柱も歪んでいる。
如何に勢いをつけてぶつかったのだろうか。
遊馬は気にせず歩いていこうとする。
すると、
「ちょ、あんたしっかりしろ!」
「誰か!救急車よべ!」
遊馬は不意にその言葉に振り返る。
初出勤日の出勤中の眼前で起こる事故。
それにより生じる患者。
格好のチャンスと言わんばかりに近づいていく。
しかし医療器具は何も持っていない。
無論手袋や医学書も。
窓が割れている。
軽トラックの窓から片腕がだらんと下がり、患者は意識を失っていた。
「ちょちょ、あんた誰だ」
「通りすがりの医者です」
遊馬は割れた窓からグイグイ体を入れて患者を診る。
(アニソコリアなし、問題は鉄柱の割れた欠片だな。穿通創だ)
「この人動かないんだよ……医者なんだろあんた、助けてくれよ」
「できる限りの事はします、離れてください」
遊馬は野次馬たちを払う。
そう簡単にいなくなってくれるはずもない。
すると遠くから救急車の音がする。
パトカーの音もする。
「……」
遊馬は処置の段取りを考え始める。
(穿通創で出血量からして大動脈を貫いている。抜けば大出血だからまずは放置だ。呼吸もまだ死戦期呼吸になってないからまずは放置。しかし胸に皮下気腫、緊張性気胸……これを優先する)
窓から顔を乗り出す。
その時腹部に鋭い痛みを感じる。
一瞬目を落とすがすぐに視線を戻す。
中から扉を開けて外側に蹴破って扉を外す。
そして野次馬に声をかける。
「誰かボールペン持ってませんか?カッターも」
すると一人の女性が近づいてきて話しかける。
「これでよければどうぞ」
筆箱が差し出される。
その中には黄色いカッターナイフとホッチキスとボールペンが入っていた。
「ありがたい…使わせてもらいます」
女性に筆箱を返すと再び患者の元に寄る。
そこで救急車が到着した。
「何してるんですかあなた!」
「白車の中に挿管セットありますか?」
「ドクターですか?」
一人の救命隊員が尋ねる。
「聖良救命センターの医師です」
「状況は」
遊馬は無視をして患部を確認する。
「今から緊張性気胸の胸腔ドレナージを行います」
「ここでオペですか?」
「……」
救急隊員が挿管セットを持ってくる。
しかし、
「大丈夫なのか」
「ですが緊張性気胸なら直ぐに処置しなければ」
救急隊員たちが耳打ちで会話をしている。
遊馬は胸壁をカッターで切開する。
患者は幸い意識はなく、ボールペンで簡単に胸膜を破ることも出来た。
ボールペンが白く曇る。
そしてホッチキスで開創部を固定する。
「これでひとまず持ちます。挿管セット下さい」
その時だった、
「熱意はわかる、けど無茶はするな」
シャツを着た男が突然遊馬の横に入ってくる。
「西野先生」
救急隊員たちが駆け寄って救命バッグを出す。
「遊馬」
「…はい」
名前を呼ばれた遊馬は一瞬驚くが直ぐに患部に視線を戻す。
「現場では安全確認が鉄則だ。お前は冷静だと聞いた。こんな現場でも冷静に対応してここにあるものだけで脱気をした。これは凄い事だ。だが自分の腹をガラスで切ってまですることじゃない。ヘルメット無しで危険な事故現場に踏み入れって誰に教わった 」
正論をたたきつけられて遊馬は頭を下げる。
その間にルートをとり、挿管を済ませていた男。
「俺は西野だ、聖良救命センター西野春馬」
「先生は……俺の上級医ですか?」
「そうだ、今日からだろ。よろしく」
「はい」
遊馬は服をめくって腹部を確認すると小さな切り傷ができていた。
「その程度なら縫わずに絆創膏だな」
「問題は患者を貫く鉄筋です」
「レスキューが来たら運び出してもらう。横向きにして運べば死にはしない」
「……」
「とりあえず、お前の無茶を俺が代わりに叱られてくるから待っててくれ」
「……ありがとうございます」
間もなくしてレスキューが到着した。
こじ開けられた扉を見てレスキュー隊長の西条が西野を睨みつける。
「一体どういうことだ」
「扉が空いていて助けなければ死んだ。だから脱気しました。しかし安全確認取れていない現状ですることではなかった。すみませんでした」
「無事で済んだのは今回だけかも知れない。ルールは守ってくれ。救命ご苦労さま」
西条は労いの言葉を2人に渡して走っていった。
その後ろ姿を追う西野。
ストレッチャーで救急車に乗せられる患者。
横向きで出血はたいしてない。
ショックの直接的原因は緊張性気胸による呼吸困難と心臓圧迫による切迫心停止。
ルートをとった今急速輸液を続けて循環動態も落ち着いている。
バイタルも血圧が低いがそれ以外はほとんど正常だ。
「アオルタをクランプしてコントロールすれば大丈夫だ」
「そうですね」
「どうした」
「……間違ったことをしたのに間違ったと認めたくありません」
遊馬の暗い表情に西野が呟いた。
「間違ってない。インプロビゼーションもできていた。だが足りないものが一つだけある」
「……」
「お前が生きてないとこの患者はどう顔向けしたらいい」
救急車はサイレンを鳴らして聖良救命センターに向かっていった。
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