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命の定義
15分前
「………」
菅井は目を覚ます。
辺りには咳き込む人々。
倒れて意識を失うもの。
「晴人…」
傍ら友人の木野晴人が意識を失っていた。
すぐに橈骨を触れて脈を確認する。
生存を確認して肩を叩く。
「おいしっかりしろ晴人!」
「……遼」
「お、おう。わかるか晴人」
意識を取り戻したが…。
「胸が…苦しい」
意識レベルが低いことは明白だった。
構音障害を発症してまもなく意識を失うと見られる。
(おそらく気胸…でも)
痛みで叫ぶ人々や混乱する人々であたりは喧騒を極める。
ここで医師として自分が出来ること……ない。
「お前……医者だろ?人を助けてこい」
そう言うと木野は意識を失った。
たった1回微笑んで。
「おい晴人!」
麻酔もメスもない中でドレナージはできない。
ましてこんな野外でオペなんて責任を持てない。
するとスマホを取り出す。
即座に電話をかけた。
遊馬だった。
「どうした」
『遊馬……聞こえるか』
「周りの雑音がうるさいが聞こえる」
『俺は今、臨海のイオンにいる』
「今向かっている。ドクターヘリの出動要請があった」
『そうか』
「俺の友達が緊張性気胸だ。ここじゃ何も出来ない」
『お前は医者だ』
電話越しの声が切り替わった。
「西野先生……」
『事故が起きた時…救急医がまず現場ですることはなんだ』
一瞬息を飲んだが頭を切りかえて答える。
「トリアージ……それから必要最低限の処置を行う」
『そうだ。そこにメスも薬剤もチューブもない。ドレナージおろか挿管すらできない。そこでお前ができるのは患者の搬送順位を決めて1人でも多くの患者を効率よく搬送する道を作ることだ』
「でも……」
『迷えばお前の友人も死ぬぞ』
すると西野は電話を切る。
切られた菅井は、
「西野先生?……」
逃げ道はないと。
エスカレーターで発生した将棋倒し事故。
ここまではドクターカーで来るはずだ。
患者の数はおそらく14。
晴人は赤。
覚悟を決めた菅井は立ち上がって声を張る。
「俺は医者だ。レスキューや救急車が来るまで俺の指示に従ってください」
「助けてください痛いんです」
「俺の彼女助けてくれよ!」
身勝手なことを言い張る人々を睨みつけてこう言う。
「勝手な真似をするな…俺の言う通りにしろ」
背が高く眼力の強い菅井ならではの場の諌め方だった。
「意識のない方は歩ける方たちが俺の周囲に慎重に運んでください。歩けない意識のある方は少し待っててください。後で来る医者がみます」
「わかった!」
いわゆる緑タグの患者8人と、野次馬たちが協力者となって助ける。
ありったけの医療器具を持ってくるモールスタッフたち。
菅井を始めとする救命態勢が作られる。
事故の起こったエスカレーターは封鎖され。
野次馬たちがやはりどんどん増える。
「骨盤骨折……双頸で微弱……皮下気腫だ」
菅井は舌根沈下を防ぐために下顎呼吸になっていた木野の体勢を整えて彼氏と彼女の彼女ほう、宮澤を診ていた。
その矢先、脈拍が弱くなって行った。
しかし赤タグ患者はもう1名いる。
その患者はフレイルチェストで外固定しなければ死戦期呼吸に陥る。
外固定を要する患者に頭を切り替えた。
たった5分でここまでことが進んだ。
「おい先生…どうしたんだよ」
「彼女さんの治療をここでできることはありません」
「は?」
「警備員さん…これ持って。俺が強く縛るから患者抑えといて」
彼氏、佐野の言葉を無視して治療を続ける。
「おいあんた、今から折れた肋骨の固定をするから痛いぞ」
「……はぁはぁマジか」
「いくぞ」
菅井はそう言うと強くシーツを引っ張って圧迫する。
「ぐぁーぁあーーぁー!!!!!」
「よし」
まもなく救急車が到着する。
やってきた救急隊員は菅井のトリアージを見るなり言った。
「トリアージ……ドクターですか?」
「ええ」
「何がドクターだよ!」
すると突然菅井に殴り掛かる佐野。
頬を殴られた菅井は倒れる。
それに突っかかる菅井は佐野の胸ぐらを掴んで顔面を殴る。
「……俺の邪魔すんな」
「玲子の…意識ねーんだよ……なんでそのおっさんを先に診るんだよ」
「お前にどっちが重症か判断できるか?」
冷たく言い放った菅井は救急隊の手に取っているバッグを取り、ソルラクトを出す。
「急速輸液するぞ」
「はい」
「菅井!」
菅井は振り向くと走ってくる遊馬と西野がいた。
「赤は3人、黄色は3人、緑は8人」
「女性診ます」
遊馬が宮澤を診る。
「心タンポナーデの兆候……FAST陽性なので間違いない…この人を最優先で搬送します」
「え…」
「お前はこの状況を俺たちに伝えなかった。患者の家族や同伴者に気遣いの言葉もなかった。自分の主観だけで行動した違うか?」
遊馬は瞬時に重篤な患者の状態を見破った。
ストレッチャーを預ける。
佐野は1度菅井を睨むがそのまま白車の元に着いて行った。
「遊馬!一人で行けるか?」
「近隣の病院に搬送したら戻ってきます」
「わかった」
遊馬はストレッチャーを運んで白車の中に乗り込んだ。
「もう1台の白車で外固定をしている患者を搬送してください」
「分かりました」
西野の的確な指示とスピードで現場が回り始める。
黄タグと緑タグ患者は救急隊の指示の元バス搬送をされる。
取り残されたのは西野と菅井と瀬尾。
それから木野。
充分な設備のない中で診療が始まる。
「さっき胸腔穿刺した。SpO2は」
西野が瀬尾に木野のバイタルを尋ねる。
「92です」
「皮下気腫出てきたなぁ」
血圧モニターを接続してルートを取る。
優先して女性を処置するために胸腔穿刺で一時的に脱気した。
しかし一時的に過ぎず、また空気が溜まってくる。
「女性を先に見た判断は正しいが殺す気か。点滴用のチューブでもいいから刺せ」
西野の厳しい糾弾が飛ぶ。
「でもそんなん思いつかんっすよ」
「災害医療はインプロビゼーションをこなせるものが多くの命を救うんだ」
瀬尾は次に何を行うかを判断して切開ドレナージセットを準備する。
「ドレナージするぞ」
「レベル3桁です」
瀬尾は意識レベルを告げる。
ぼんやりと突っ立っている菅井。
「お前エコーしたか」
「え?」
「患者の胸腔内のエコーしたか?」
「してません」
「……」
西野が裁ち鋏で木野の服を切る。
すると、
「左胸に打撲痕と血腫」
「え……」
西野の言葉に菅井が驚く。
瀬尾は菅井の顔を見て言った。
「先生手伝ってください」
「現場で医者は患者の全身状態を隈無く診て後発の医者の手間を省くためにトリアージをする。その過程が疎かになれば俺が無駄な時間を費やして患者の命削るんだ…お前のミスだこれは」
西野の冷たい言葉が胸に刺さり瀬尾の言葉がどこかえ消えてしまった。
「穿刺針くれ、脱血する」
「待ってください、血圧70切りました」
テレーンテレーンテレーン
「なに」
モニターが警告音を発する。
「……」
菅井は木野の様態の急変に青ざめてその場に倒れ込む。
「菅井先生!」
瀬尾は必死で呼ぶがその声は届いていないようだ。
その様子から判断してすぐに菅井を諦めてエピネフリンを出す。
「開胸する」
「開胸?ここでですか?」
「お前は緊張性気胸を処置しろ」
「でも…」
菅井は穿刺針を覆うガーゼを見る。
血液が溢れて染み出している。
おそらく大量血胸。
開胸して大動脈を遮断して出血をコントロールすることが最前の処置だろう。
菅井はオロオロとたじろいでいる。
西野はその様子を見てはいなかった。
後ろで狼狽える菅井の様子は容易に想像できた。
西野は前胸部に消毒液をかける。
呼応して瀬尾がドレープをかける。
しかし気胸を起こしている左胸には消毒はかけられない。
つまり医師の指示がなければ看護師が動けないということの象徴だった。
だからこそ菅井の指示を待っている瀬尾。
しかし菅井は浅呼吸を繰り返すだけで呆然としていた。
「お前は医者だ……命の主導権を握るのはお前だ…」
西野が突然菅井に言葉をかける。
こだまする。
西野はメスで開胸を既に済まして開胸器で開創固定をしている。
「血圧50切りました。下は測定不能です、サチュレーション測れません!」
瀬尾が泣きそうな声で西野の方を見る。
菅井は西野の方を見る。
西野は言葉を続けた。
「メスを握れ……お前が救え……目の前のたった一つの命を」
西野はたった1回患部から目を離してこちらを見る菅井の方を見た。
目が合った西野は直ぐに患部に目を戻す。
「ペアン」
目の前に倒れている友人。
その胸は赤く染まり、命がつきようとしている。
モニターに表示されている42という文字。
まもなく心臓が止まり、
帰らぬ人となる。
自分は医者だ。
唯一患者の体にメスを入れることの出来る職だ。
あまたの困難を乗り越えて
ここまで成り上がってきた。
自分の全てを捨ててまで。
でも自分に出来ることは無い。
ちっぽけだった。
出来ると傲り、
周りの医学生より才を持ち、
親は医者。
何も臆することなく順調な人生だった。
だからこそ不甲斐ない自分を見ていると
悔しくて恥ずかしい。
あぁどうして俺はこうなんだ、と。
けど知った。
自分は医者だ。
一人で出来ることは少ない。
でも信頼する指導医がそばにいる。
助けてくれる看護師がいる。
努力してここまで来れた自分がいる。
メスを握れる。
だったらその力で俺の大事な友達1人守らなきゃ
何が残るんだ……俺に。
「バイタル」
「心拍64、血圧39、下測定不能でサチュレーション同様に測定不能です。呼吸数は8、輸液追加しますか?」
「頼む…」
西野がアオルタを半分剥離したところだった。
立ち上がる者がいた。
西野は一瞬上を見る。
笑顔が物語っていた。
おそらくこの患者は助かったという勝算が。
「消毒とドレープ、ゴム手袋お願いします。胸腔ドレナージします」
「分かりました」
瀬尾に笑顔が浮かぶ。
菅井は患部を確認する。
(皮下気腫が進行してる…)
ドレープがかけられた患部に目を落とす。
「すぐ入れろ、死ぬぞ」
「はい」
瀬尾が菅井にメスを手渡す。
「先生…友達救ってください」
看護師の笑顔が菅井の緊張を解く。
菅井は円刃のキャップを外して肋間にあてがる。
2センチほど切開する。
(現場でのオペなんて経験がない……でもやるしかない)
瀬尾が菅井の表情をくみ取って手を握る。
菅井はその温かさ、優しさを受け取った。
そして頷く。
菅井は瀬尾にペアンを要求する。
瀬尾からペアンが渡る。
「血液凝固が進みすぎてる。コアグラのせいで癒着が酷い。クーパー」
「はい」
クーパーを受け取るとものすごい速さで組織を剥離していく。
「組織傷つきませんか?」
「この際大血管傷つけなきゃ後でどうとでもなる」
その話は耳に届いていなかった。
菅井は凄まじい集中力でペアンで胸膜を破っていた。
圧がかかっているものを突き破ると皮下気腫がみるみる引いていく。
「抜けた……」
「サテンスキー」
「ドレーンください」
ほとんど同時だった。
最後の仕上げの作業に必要な道具を同時に要求する。
瀬尾は両手でそれぞれ渡す。
西野はラチェットをかける。
「アオルタのクランプできた」
菅井はドレーンを留置してチェストドレーンパックを付けることが出来た。
2人はほとんど同時にモニターを確認する。
すると、
ピ ピ ピ
正常であると知らせるモニターの音が鳴る。
下がり続けていたバイタルが回復していく。
瀬尾がそれを見て読み上げる。
「血圧80の下42、心拍70、SpO2 95!サイナスです」
「よし」
「……ふぅ」
安息する3人。
菅井の方を見る西野。
「…まだ終わってない」
「……」
「血を入れないと持って1時間。すぐ心停止するぞ」
「はい」
「瀬尾、急速輸液続けてくれ」
「分かりました」
斜陽が沈む中、西野と瀬尾が白車に乗って木野に同乗した。
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