優しさ

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優しさ

サイレンを鳴らして横浜を駆ける白車の後ろ姿を後にして、菅井はぼんやり空を眺めていた。 足音がする。 近づいてくる。 自分よりも大きなその影は横で止まる。 「お前は冷静だな」 菅井は遊馬にそう言った。 遊馬は黙って夕空を見る。 答えなかった。 「女性はオペ終わったそうだ。心臓血管外科で診ることになったそうだ。」 「……」 菅井も答えなかった。 わざわざ科まで行った理由をくみ取ったからだ。 心臓血管外科。 救急医療、まして心エコーもない災害事故現場で心臓の細かな血管の損傷に気づくはずもない。 あの現場でお前は最上の医療を提供した。 そんなことを伝えたかったのだろう。 そんな優しさを受け取ったとしても、自分よりも力のあるやつに言われたところで皮肉にしか聞こえない。 「…なぁ遊馬」 「……」 「俺はお前が嫌いだ」 「俺もだ」 「え」 遊馬の方を見る菅井。 「お前は医者向いてない。邪魔なだけだ」 「てめ…」 遊馬は殴ろうとした菅井の拳を手で受け止める。 凄まじい力で牽制される。 「血気盛んな人間が医者になって現場に迷惑かけて、挙句トリアージミス。何しに来たんだここに」 そう冷たい一言を吐いて救命バッグを持つ。 菅井は何も言えなかった。 事実だから。 だからこそ同期の遊馬にわかって欲しかった。 できない悔しさ、やるせなさ。 でも土俵が違った。 かたや冷静、かたや感情的。 医者としての才能、救急医としての才能に雲泥の差があったのだ。 けれど、 「助けたいと思う命に思いをぶつけるお前の覚悟と胆力……俺に無いものを持つお前を尊敬するよ」 ただ欲しかったのだ。 そんなふうに自分を認めてくれる言葉が。 聖良に来て1週間経つ。 初日から突き飛ばされ、現場には出して貰えず、出してもらえるチャンスを逃して定時に帰り遊馬に迷惑をかけ、トリアージと治療の曖昧さ。 そんなものが自分の中にのしかかり罪となって心を蝕んでいく。 いつもテストは1位、医学生になっても俺はトップを走り続けた。 臨床や演習もいつも手本となる。 ここに来る前の救命でも俺は優秀と言われた。 でもここは病院じゃない。 何も無い現場だ。 こんなとこで出来ることはたかが知れてる。 だからこそできることを見出そうとした。 けど吐き捨てられた言葉が遊馬や西野の冷たい一言だった。 もし自分が何か出来ることがあるとしたらそれは、 「行こうぜ遊馬、もう日が暮れちまう」 目の前にある命に全力をかけて1秒でも諦めず救うこと。 遊馬や西野先生になくて俺にあるもの。 それが俺の医者としての本懐だ。 命に意味は無い。 だからその意味を付けるために俺は命を救う。 友達だから、家族だから、恋人だから。 違う。 命だから。 『たった一つのかけがえの無い命だから』 俺はそんなふうに命に定義をつけて救おうと思う。 ありがとな、遊馬。 菅井の頬に一筋の涙が流れる。 遊馬は気づいていたのかもしれない。 けど何も言わなかった。 2人はもう夜となった横浜を電車で帰路に着く。 聖良が見えてくる……。 「フレイルチェストの田辺さんはお前の外固定で肺挫傷(はいざしょう)を悪化させずに済んでICU。お前の友達も無事。心タンポの女性もあっちの病院でオペ終わって無事だそうだ」 西野がERに入ってきた二人に言った。 その言葉が2人の心を安堵に包む。 「……」 遊馬は壁を眺める。 「肺挫傷……」 「あぁ、あと少しで右肺全摘だったそうだ」 「……」 「俺の外固定が…」 「お前のおかげで救われた、よくやった」 西野は菅井の肩を1回叩いてERを出ていった。 菅井は遊馬の顔を見る。 遊馬はそれに気づいて菅井の顔を見て笑みを浮かべる。 すると遊馬もドクターカーの方に向かって出ていった。 1人残った菅井は窓から入ってくる朝日を見た。 「……俺だって医者だ」 菅井は微笑んで寝台につっ伏す。 朝がやってきた。 3時間後。 相変わらずの朝だ。 ERには平穏は訪れない。 鳴り止まぬホットライン。 死にゆく人々。 喧騒が溢れかえるICU。 瀬尾が医局に入ってくる。 「あれ……菅井先生」 「……」 「菅井先生?」 「ん?」 起こされる菅井。 「どした?」 「西野先生どこですか?」 「……寝てたからわかんないごめん」 「ありがとうございます」 出ていこうとする瀬尾に声をかける菅井。 「流雨ちゃん」 「へ?」 「いや、流雨でいくわ」 「やめてくださいよ」 「同期なのになんでタメ口きかないんだよ」 「医者とナースという関係だからです」 そう怒って言うと扉を閉めて出ていった。 負けじと菅井もついて行く。 「なんで着いてくるんですか」 「謝りたくて」 「え?」 菅井は瀬尾の方を見て言った。 「昨日の現場で……諦めそうになってごめん」 瀬尾は菅井の方を見る。 ゆっくりと微笑んだ。 「でも救ったじゃん…かっこよかったよ菅井先生」 その言葉が菅井の笑みを爆発させる。 「ちょ……」 「早く行きますよER」 「流雨、そんなん急に」 「私、西野先生に用があるんです」 「なんで?」 「今急患2人の受入要請があったんです。PHSかけても出ないから医局で寝てるかと」 「なるほど……は?」 「え?」 「なんで俺呼ばれてないんだ!?」 「役立たずって思われたんじゃないですか?」 「酷くね?それ……は?」 そんなふうに大きな声を上げる菅井はERに走っていった。 瀬尾は後ろ姿を見て笑う。 「遼……案外悪くないかも」 遊馬は屋上にいた。 屋上から眺める景色。 この広い横浜で数々の事故が起きる。 そこに出動する自分たち。 そんなことを思い浮かべていた。 「昨日の将棋倒し…私も行きたかった」 平瀬が後ろから声をかける。 遊馬は振り返らずコーヒーを口にする。 「キツかった」 平瀬は笑うと遊馬に尋ねる。 「心タンポの心嚢穿刺を救急車の中でしたんでしょ?」 遊馬は平瀬の顔を見る。 1日前。 「先生……心拍下がってます」 「……」 心タンポナーデの診断が出ている女性はすぐにでも処置しなければならないぐらいに深刻な状態だった。 思ったよりも進行していた。 「心嚢穿刺します」 「ここでですか?」 「時間ない、シリンジと尖刃(せんじん)」 「はい」 遊馬はエコーを取り出して確認する。 位置を間違えて心筋に突き刺せば患者は死ぬ。 しかし妙に落ち着いていた。 「メス」 遊馬はメスを受け取ると剣状突起(けんじょうとっき)付近を切開する。 「シリンジ」 「はい」 穿刺針を突き刺して奥に進めていく。 引きながら進めるため血液が引けたらそこが心嚢ということだ。 すると瞬く間に血液が引けてくる。 同時に心拍数が上昇していく。 「先生…心拍上がってきています」 遊馬は笑みを浮かべて頷く。 「どうしてそんなに冷静に動けるの?」 菅井や平瀬は同じことを考えていた。 同期でありながら遥かに遊馬は動ける。 まるでベテランのシニアドクターに匹敵するぐらいに。 答えは簡単だった。 遊馬はスマホを取り出して平瀬に見せる。 平瀬は理解できなかった。 「何これ」 写っているのはスマホのAmazon購入履歴。 「…医療キットやマネキン」 「100万賭けた」 「え?」 「お前らが飲んだり食ったりしてる間に俺はそれを使って何度もデモンストレーションしてるんだ」 「……」 人だろうがものだろうが関係ないということだろう。 改めてこの人がすごい人間だということを知った。 「聖上大だよね、前は」 「そこで救命をしていた。お前は」 「平瀬総合病院の総合外科」 「ジェネラリスト上がりのレジデントか……」 遊馬は驚いた表情で平瀬の方を見る。 平瀬はその疑問を察して答える。 「私の両親はそこの院長なの」 「背負ってるんだな」 「何その言い方…」 平瀬は笑った。 空を眺めて。 その空は空っぽだった。 「俺も背負うものある」 「え?」 「俺は医者をやらなきゃ行けない」 そんな言葉を吐いて遊馬は屋上を後にする。 平瀬は後ろ姿を見てため息をついた。 「……背負う…か」 屋上から帰った遊馬は医局に行った。 デスクワークが残っているからだ。 「資料は山積みだな」 「ええ」 西野が遊馬に話しかける。 「慣れたか救命は」 「救急医として俺ができる責務を全うするだけです。命を繋ぐ現場はいつも過酷です」 「そうには見えない」 遊馬は手を止めて西野の方を見る。 それに気づいた西野も遊馬の目を見る。 「俺は先生に救われたんです」 「……」 続く
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