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患者
「俺は先生に救われたんです」
遊馬の言葉が医局に静寂をもたらす。
間が空くのが嫌なのか西野はすぐに答える。
「どういう意味だ」
しかし遊馬は
「結果で返します」
そう言うと医局を出ていった。
「ちょ、遊馬!」
背中だけが見えている。
扉が閉まり、影は遠のいていく。
心当たりのないその言葉に西野は戸惑いを隠せない。
「……」
様子を見ていた平瀬が遊馬に話しかける。
「何話していたの?」
鬱陶しそうに遊馬は平瀬を払い除ける。
「……」
「……」
平瀬が急にニヤついた顔で遊馬を見る。
「救命のレジデントエース。顔つきとか所作とか西野先生に似てるね」
平瀬はそんなことを言った。
遊馬は場が悪そうにナースステーションの書類にサインをしている。
「まだまだだ。お前も出れるように努力したらどうだ」
「してるよ」
平瀬はつまらなそうに言った。
「大体」
遊馬は平瀬の顔をようやく見る。
「顔が近いんだよ。どけ」
50センチ切るレベルの距離で話をしている。
「ぁぁごめん」
さすがに謝る平瀬。
相変わらず遊馬は書類を書いていた。
遊馬は過去の俺たちの話をしていた。
そんなことを考えている。
引っかかる言葉。
分かるはずもなく昼食を購入するために購買部に出かける。
ERを過ぎて人々の話し声が飛び交う渡り廊下に差しかかる。
西野に足音が近づいてくる。
何食わぬ顔で歩いていこうとするが足音は西野の前で止まる。
「……」
一瞬目があったその人と一言も言葉を交わさずにすれ違う。
それが気に食わないのか女性は西野に話しかける。
「なんで無視するの?」
西野はその言葉に笑みを浮かべて返事をする。
一瞬だった。
「時間の無駄だからだ」
歩き去ろうとした時に女性は西野のスクラブを掴む。
西野はその人に心当たりがあった。
面倒事に巻き込まれることを察した西野はスルーを決め込もうとしたが阻止された。
「あたし、救命入る」
突然そんなことを言った。
緑のスクラブを着ているその女性、横浜七羽は西野に告げた。
言っている意味がわからずつい反論してしまう。
「は?」
何を言ってるのか理解ができない西野は疑問をうかべる。
「だから、あたしは救命に行く」
「……お前……」
唖然とする西野。
「もう平気」
「……ほんとなのか?」
横浜は静かに頷く。
「……通してあるのか?」
「院長には言ってある」
「そうか」
西野はそう言うと足早に去っていった。
後ろ姿を見て横浜は不機嫌そうににつぶやく。
「……春馬のばーか」
数日だった頃。
雨の日だった。
「意識ないままだ」
「ええ」
菅井と西野はICUで患者の術後管理をしていた。
横浜と西野が話したあと3日後の事だった。
ホットラインが鳴り、運ばれた患者は肝臓を損傷していた。
階段転落だった。
救命医達の賢明な処置で息を吹き返した。
「お前が初めて担当する患者だ。責任持って診ろ」
「はい」
菅井はICUにいる横田を見る。
無機質なモニター音が鳴っているだけだった。
ふとそこに先日から毎日見舞いに来ている妻がいた。
横田晴美さんだ。
テレレレレーーーーンテレレレレーーーーン
そこにホットラインが鳴る。
PHSの要請を聞いて人で語りていると判断した菅井は横田の元に行く。
後ろで遊馬と平瀬が走っていくのを確認できた。
「こんにちわ」
「……」
菅井の挨拶に横田はお辞儀をした。
運ばれてきたのは階段転落で頭を打った患者だった。
「頭部CTですね」
「ポーダブルのオーダー出します」
遊馬と平瀬が頭部外傷の患者の処置を素早く行う準備をする。
「清野です」
脳外科の清野がコンサルをされてやってくる。
「清野、悪いが頼む」
「わかった」
バタバタするER。
ポーダブルが運ばれてすぐさまスキャナーにかけて頭部レントゲンを撮る。
西野が頭部CTと病態から急性硬膜外血腫と判断する。
「EDHだ。マンニトールとフェンタで脳圧下げよう」
ナースたちがいっせいに開頭手術の準備をする。
「尖刃と電メス。それからドリル、角錐」
「お前ら2人もフォローしろ。俺が前立ちやるから吸引と術野確保頼む」
「はい」
「……」
遊馬と平瀬はガウンを着てドレープの前に立つ。
「開けます」
尖刃が頭に入っていく。
脳外科医としての正確なメスさばきは研修医2人を圧倒する。
あっという間に脳室ドレナージは終わりを迎えた。
「凄かったねぇ先生たち」
平瀬が術衣を脱ぎながら言った。
「同期らしいな。だいたいお前なんで男子更衣室で、それも俺がいるとこで着替えてんだよ」
平瀬が不思議な顔で遊馬に言う。
「羞恥プレイヤー」
「……」
「引かないでよ嘘だよ」
「ホントだったらお前を埋めてた」
まずここに服があることが不思議だった。
「あれは救命だな」
「え?」
「清野先生。手さばきと適応力判断力が救命上がりのそれだった」
遊馬の言葉に、
「そうです、清野先生は脳外科専門の元ERの先生です。西野先生と横浜先生っていう整形の先生と今は聖良にいない夏目先生って人達4人が同期らしいですよ」
瀬尾がそう言う。
「ちょっと待て」
「何?」
瀬尾が遊馬の言葉に不思議な顔をする。
「なんでお前もここにいるんだよ」
「横田さんの奥さんと話したのか」
「はい」
菅井はぼんやりしている所を急に西野に話しかけられる。
数時間前西野は脳のオペをしたばかりだ。
「なんだって?」
「……命が重たいものだって…つくづく思いました」
菅井は横田の体を拭いたり消毒をしていた。
でも手を止めて西野に返事をした。
西野が言葉を返そうとしたところで西野のPHSが鳴る。
「すまん」
「はい」
様子見ていたのか横から瀬尾が来る。
「手伝う?」
「さんきゅ」
瀬尾は紙袋を持っていた。
「何それ」
「どら焼き。退院した患者さんの家族から頂いたものだよ」
「食っていい?」
「いいけど、そしたらどうなるか分かるよね?」
『シバく』という意味合いをこめた笑顔で答える瀬尾。
命の危険を察した菅井は黙って消毒を続行した。
「何か」
院長室に呼ばれた西野は桜沢の前に立つ。
「座ってくれ」
「失礼します」
腰掛けると桜沢は西野の目を見て話しかける。
「唐突だが来月から高度救命救急センターとしてのシフトを増やす」
「はい」
「そこでお前の同期…姪の七羽を含め3人を配属する」
「あいつ……ホントだったんですね」
「言ってきたか」
「……それよりトラウマは」
「……何か思うことがあるんだろう。それを信じる」
「患者殺してそのトラウマ抱えてもらったまま来られても迷惑なだけです。姪という贔屓で配属させるんならやめてください」
「……俺は信じてる。救命医を」
西野は桜沢の言葉をじっと聞いた。
「今日のシフト私かぁ」
平瀬は与えられた仕事に不安を覚える。
「不安なのか?」
西野はERに入ってくる。
遊馬が尋ねる。
「そりゃそーだよ」
「あの菅井先生、なんで食べたんですか?」
瀬尾に説教される菅井。
殺気をまく瀬尾の声で遊馬と平瀬はそちらを見る。
「だって、流雨がいいって言うから」
「食べてもいいですけどどうなるか知りませんよ?って言ったよね?」
「遊馬先生……あの二人仲良いの?」
「俺は寝てる」
遊馬は完全にこの状況を離脱している。
平瀬はどうしていいか分からずとりあえず西野の席に座る。
瀬尾が菅井を拘束している。
「ナースに叱られるっていいよね」
「エムですか?気持ち悪い」
「どうしてか菅井にだけは当たりが強い」
「ほー」
平瀬にようやく説明する気になった遊馬。
理解ができない。
テレレレレーーーーンテレレレレーーーーン
医局で若手が遊んでいる最中にホットラインが鳴る。
「はい聖良救命センター」
西野がホットラインをとる。
「横浜市消防よりドクターヘリ要請です。横浜芸術隊の舞台袖で舞台の骨組みが崩落。負傷者2名が出ている模様です」
「出動します」
「五百旗頭、ドクターヘリ頼む」
相良が五百旗頭にそう言おうとした時に西野が口を挟む。
「雨だ……車出すしかないです」
窓を見るとまだ雨が降っている。
西野はPHSで鈴木に出動要請をかける。
「先生!」
瀬尾が西野にスタンバイが完了した呼び掛けをする。
「気をつけて瀬尾さん」
師長が瀬尾に励ましを入れると相槌を打つ。
「平瀬行くぞ」
「はい」
平瀬はヘルメットを持ち、隊服を装着して走り出した。
「気をつけて」
菅井の言葉は無視される。
遊馬は腕を組んで見ている。
「なんだよあいつ」
相良が西野の元に近づいて言った。
「気をつけてこい」
「……」
西野は頷いて走り出した。
「相良先生!」
「……」
ICUからナースがERに入ってくる。
「ICUの横田さん、急変しました」
「何?」
菅井もその言葉を聞いて驚く。
菅井と相良が走り出す。
駐車場に走る3人。
「鈴木さんお願いします」
西野の言葉で鈴木が頷く。
3人は車に乗り込む。
無線を耳に装着する。
「ドクターカー出動」
やることはただ1つ。
研修で学んだことを平瀬は行う。
「こちら聖良ドクターカー。患者情報と現場の安全確認お願いします」
西野は瀬尾にアイコンタクトをする。
瀬尾も笑って頷く。
正しいと悟った平瀬も笑みを浮かべる。
「現場レスキュー、安全確認が取れてる。傷病者3名、うち1人が挟まれて動けない。意識はあります。残り2名は片方右下腿開放骨折。もう片方は意識なし」
「了解です」
無線を切った。
西野は笑みを浮かべる。
「トリアージ任せる」
「え?」
急にそんなことを言われた平瀬は呆然とする。
あまりの難題に思わず瀬尾も口をあんぐりとする。
「患者3人の優先順位と処置方針を全て集約して俺に命令しろ。お前にはそれをできる技術がある」
「……」
現場に近づくドクターカーはサイレンを鳴らしている。
そんな中不穏なざわめきが走った。
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