ゼロ

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ゼロ

無機質なモニター音が鳴る。 0………。 不条理なその数字は患者の生命力が枯渇したことを示す。 受け入れてしまう自分が怖い。 冬の寒い空気が辺りをかすめる。 凍りつくような気持ち。 自分が担当する患者を初めて亡くした。 平瀬や遊馬には無いものを持った。 消毒の匂いがERに立ち込める。 でも鼻腔に入ることは無かった。 正確には入っても感受するほどのゆとりがなかった。 「よくやった平瀬」 ドクターカー業務を終えた平瀬に相良が労いの言葉を発する。 「ありがとうございました」 「現場で緊急の気管切開……並の若手の胆力じゃ1人で出来ん。お前はやり切った」 平瀬は微笑む。 視線の先にいる西野。 術衣を着ている。 「あれ…オペしたんですか?」 菅井はへこたれていた。 「菅井の担当患者の横田さん。肝臓の再破裂と肝門脈解離の大出血で亡くなった。粘ったが体力が持たずエイシスになった」 「そうですか」 夜になる。 菅井と瀬尾はERで作業をしていた。 西野と遊馬と平瀬はデスクワークをしている。 「……当直?」 不意に瀬尾が菅井に話しかけてきた。 「違う」 苦し紛れにゆっくり口を開いた。 瀬尾は菅井の表情を伺って話しかける。 「横田さん……」 「横田さん……俺実は横田さんの奥さんがここに来た時少し話したんだよ……」 「……」 瀬尾は菅井の話に耳を傾けた。 菅井が辛い顔をしていることを察して励まそうとした。 でも彼は違った。 与えられた運命に抗おうとしている。 だったらそれを受け入れる必要がある。 「うん」 瀬尾の目を見て菅井は話し始めた。 「カンファレンス室を借りたんだ」 「菅井先生……でしたか?」 「…はい」 横田は菅井の名前を覚えていた。 「俺の名前を?」 「……担当の先生…若いって言うから心配になって」 笑ってそんなことを言う横田。 「えぇ」 悔しそうに笑う菅井。 「けど違ったんです」 「え?」 菅井は思いもよらない言葉を耳にする。 そこでようやく2人は座った。 沈黙が流れる。 破るように横田が口を開く。 「先生……」 菅井はこちらを見る横田の顔を見つめる。 「……」 「ありがとうございました」 「横田さん……」 「悟ってます……教えてください死期というものを」 必死に懇願してくる横田。 菅井は何も言えなかった。 ダメージコントロールサージェリーとは患者の病態と生命兆候が著しく厳しい状態の場合、オペを続行することが困難であり、一時的にオペ自体を中断し、体力が少しだけ回復してからオペを再開するというもの。 その時点でかなり損傷が激しく意識も戻らず、オペ後も完治に至るまでには数ヶ月を要するほどの怪我だった。 あるいは……間もなく命が尽きる可能性もあった。 十分すぎる可能性の中でも必死に生きている横田を、それを待つ奥さんのためにも菅井は担当医として必死にケアし、共に戦おうと尽力した。 「……」 だから辛かった。 尽くした患者は確かにもう命の境界線が崩れ去ろうとしている。 そんなこと言いたくなかった。 「正直……様態が急変…あるいは今の病態を持続困難で心停止する可能性は限りなく高いです」 「……先生?」 「はい」 横田は涙を流した。 「受け入れる覚悟は出来ています。不慮の事故とはいえ残酷な運命にある私たち…それも仕方ないことだって思っています」 「はい」 「けど……」 横田は言った。 「先生はお若いのに…素晴らしい先生です」 菅井は思いもよらない言葉に耳を疑う。 「夫のケアに徹し、たくさん処置をしてくださいました」 菅井は動揺する。 しかし、 「ありがとうございました」 深々と頭を下げる横田。 「そんな……やめてください」 「私は…生きている彼を見るだけで幸せでした」 「笑顔だったんだ…霊柩車が病院に来て、俺たちの方見て横田さん、言ったんだよ。『最後までありがとう、菅井先生』って」 瀬尾は菅井の涙ぐむ目を見ている。 どれだけ辛い思いを抱えているかはかりしれない。 「何も出来なかったんだよ…なのに頭下げさせて」 「医者なら…」 その言葉にかぶせるように菅井は言葉を続ける。 「だから俺は助けたかった。きっとこの理由は俺しか知らない……特別な肩入れしては行けない。そんなの分かってる……けど」 菅井の目からは涙が溢れていた。 抑えることの出来ない感情。 助けられなかったやるせなさ、焦燥感、情けなさ。 混じり合い混沌とする。 「俺たちの手で治して……生きてて欲しかった…暖かい奥さんと、また笑って暮らして欲しかった」 瀬尾はその泣き顔で丸く自分を抱える菅井を呆然と見ていることしか出来なかった。 当直の平瀬…当直でない遊馬、当直の西野が黙ってその話を聞いていた。 あれからしばらく経っても菅井のすすり泣く声がERに響いていた。 何度も何度もコダマした。 ………。 「エンゼルケアはしっかりしたんだ。お前は担当医として全うした。次に進め」 ぼんやりとする菅井に西野が喝を入れる。 西野はERを出ていった。 「菅井」 「あ?」 遊馬は菅井に話しかける。 突然こう言った。 「医者は患者の死を避けて通れない」 「……」 遊馬は不意に菅井に語り掛ける。 「どうしたんだよ」 ERの寝台にいつのも定位置で寝そべる菅井。 遊馬は真剣な表情で菅井に話す。 どこから来たのかERに用事のある横浜がその話を聞いていた。 「そんな言葉良く耳にする。当たり前だ。命と向き合う戦場で失う命があることは分かってる」 「……」 「その人たちの分まで真っ当な人生生きて死ぬ、それが俺たち救命医の使命だと俺は思う」 遊馬はそういうと出ていく。 菅井はわかっていた。 このままじゃ何も始まらない。 だからこそこれからも頑張っていく。 今を全力で生きる。 目に活力が戻ってきた。 横浜は遊馬の後ろ姿を見て回想する。 自分が殺してしまった患者。 そんな恐怖抱えながら離れていった。 瀬尾は菅井の元による。 「あんねー遼」 「ん?」 菅井の目を見ていつもと同じ情緒に戻ったことを察した瀬尾は気さくに話しかける。 「患者に感情移入して優しくなるならナースの私に少しは優しくしろー」 そういうと背中をはたく。 「いってぇ!」 通りすがり様子を見た平瀬は微笑ましい光景に笑ってしまう。 過去は変えられない。 未来は分からない。 分かるのは今の自分だけだ。 振り返ろうとも、進もうともしなくていい。 大切なのは前を向くことだと思う。 どんな残酷な運命でも俺たちは未来のために、過去を塗り替えるために今を変える。 医者はその舵取りをする使命を持っていると思った。 ピーーーーー 電メスで組織を焼く音が響く。 遊馬と西野はICU患者の気切を行っている。 「平瀬…暗い現場で1人で気切を行った」 「……」 西野は膿盆の上にある開創器を持つ。 「菅井は患者の死を経験した」 「……何が言いたいんですか」 遊馬は患部に目を落としている。 「お前は冷静だ。同時に失敗を知らない」 チューブを挿入する。 遊馬は西野の方を見る。 「絶対負けんな」 遊馬はその言葉を聞いたと同時に患部に目を再び落とした。 2人はその後黙って気管切開を行った。 ICUの処置を終えた西野は屋上にいた。 「春馬先生…」 「なんだ」 清野が西野に近づいてくる。 言いたいことはあらまし察していた。 「七羽先生……」 「あぁ、来週から救命に入る。桜沢先生がDMATと救命の拡張を行うにあたりドクターの数を増やしたいそうだ」 「DMATとドクターヘリ事業…桜沢先生、相良先生、西野先生の敏腕救命医が立ち上げたんだもんね」 「今頃あいつもいただろうに…」 西野の表情が暗くなる。 「今どこにいるの?」 「聖良大学の生化学の教授してる」 「夏目先生……」 「お前は何しに来たんだ」 西野は清野の方を見た。 「私も救命に戻る」 清野も西野の目を見た。 その眼には焔が点っているようだった。 続く
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