氷雪の花

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 冬枯れの山に、ず、ず、と低い音が響く。木立の間から窺えば、草臥れた年寄りが大きな桶を引いて歩いていた。接ぎの当たった擦り切れた衣から覗く手足は随分細い。罪人の証だろうか。右の手首と足首に青黒い墨の痕がぐるりと回されていた。枯れ枝よりも乾いて皺の寄った体では寒さを感じることも出来ぬのか、襤褸を千切ってしまいそうに吹く風にも頓着する様子は無い。  ず、ず、と。  雪に埋もれた森に音が響く。夕べからの雪は今は止んで、冬の森は煌めく光に冷たく照らされていた。  その山の中腹には少し拓けた場所がある。随分前には慎ましい住まいがぽつんと建っていたが、住む人も無くなって久しいので今はもう朽ちてしまった。蔦に巻かれ崩れ落ちた廃屋のその脇に、山茶花が一本枝を広げている。背丈は四尺程しかないが瑞々しい青い葉が冬の光に煌めいて美しい。そこに雪のように真っ白な花を控えめに咲かせていた。  桶を引き摺ってきた年寄りはその木の前で立ち止まる。そして、ぼろぼろの衣の合わせから大凡似つかわしくない真新しい柄杓を取り出した。山茶花に向かってぼそぼそと何事か呟いた年寄りが徐に振り返る。誰かその様子を目にした者があれば肝を冷やすことになったろうが、幸いそのような者は居ない。  柄杓を桶に突き入れると、薄く張った氷がぱりんと割れる。年寄りはその下から凍えそうに冷えた水を掬って山茶花に向かって撒いた。 「おお……っ」  冷たい水を浴びた山茶花が日の光を受けてきらきらと輝く。年寄りは歓喜の声を上げて柄杓を水に浸け、また掬って振り掛けた。それを二度三度と繰り返せば葉や花の表面には薄く氷が張り、山茶花は更に艶めいて煌めく。  何度も。何度も。  柄杓を握る手が水に浸かろうとも、撒いた水が己にかかろうとも、年寄りは頓着しない。おお、おお、と。感嘆の息を吐きながら水を撒いてゆく。  やがて小さな山茶花は凍りつき、日を受けてひかめいた。可憐な白い花を。艶やかな緑の葉を。氷の中に閉じ込めて雪のなか美しく立つ。 「お、おおお」  枯れた手から柄杓がぽとりと落ちた。年寄りの窪んだ二つの洞が大きく見開かれる。それが光を映すことはない。瞳など疾うに溶け落ちてしまったのだから。  そこに何が見えるのか。年寄りは喜びに震えながら山茶花に手を伸ばした。土気色の指先は崩れかけて、滴った水がつららを作っている。 「おお」  年寄りは震えながら氷漬けの花に頬を寄せた。水を被って濡れた皮膚が張り付いて、身動ぎの度にぺりりと剥げる。しかしそれは乾いた樹の皮を剥ぐようなもので、一滴の血も流れはしない。剥がれたあとには同じように土の色をした柔らかい肉が覗くだけだ。  まるで愛しい女を抱くように、年寄りは凍った花を撫で回す。恍惚に震える息を吐いて枯れた身を擦り寄せる。一面の美しい白のなかでそれは一滴墨を流したように醜悪だ。しかしそれを咎める者は居ない。いつまでもいつまでも。年寄りは凍った女を撫で続けた。
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