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風の中に声が聞こえたような気がして巳之吉は動きを止めた。息を詰めて辺りを見回し、枯れた手のひらを添えて耳を澄ませる。
――ばかなひと。
止んでいた雪が再び落ち始め、風と交じって渦を巻く。巳之吉は痩せた体で氷漬けの山茶花を抱き締めた。纏った襤褸が風に煽られはためく。襤褸も崩れかけた身も千切れて飛ばされそうになるが、何としても守らねばならぬのだ。愛おしいこの女を。
――なんと愚かな。忘れてしまえば好いものを。
聞こえる。確かに聞こえる。愛おしい、焦がれて止まない懐かしい声が。
「雪花? そこにいるのか?」
巳之吉は氷像を抱いたまま空を振り仰いだ。申し訳程度に残った蓬髪を振り乱して声を張る。
「雪花! 姿を見せてくれ!」
何処にそれ程の力が残されていたのか。厚く積もった雪を掻き、葉を落とした木々の枝を払って、巳之吉は声の主を探した。雪に刺さって指が捥げ、枝に負けて肘が砕けたが、そのようなことには頓着しない。己のことなどどうでも好いのだ。
声は山のあちこちから響く。己が雪花だと信じていた山茶花は、雪花ではなかったのだろうか。確かにこの目で花に変じる様を見たというのに。
「雪花! どうか!」
――出来ませぬ。もう、姿なぞ無いのです。どんなに氷で模ってももう戻りませぬ。
「いいや。そんな筈は無い」
巳之吉は食い下がる。氷漬けの山茶花を示して喚きたてる。ただの白い花が、空虚な眼にはどう映るのか。
「見てみろ。髪も、瞳も、唇も! お前と寸分違わない。ここには器が在る。響く声には霊が在る。ならば、二つが合わされば!」
乾いてひび割れた口から飛沫を飛ばして巳之吉は叫び続けた。諦めきれない。認められない。雪花がもう居ないだなどと。それならばこれまでの日々は何だったのか。待った月日は、浴びせ続けた冷たい水は、何の為にあったのか。
「お願いだ。どうか戻って来てくれ」
雪花に会いたい一心で水を運び続けたのだ。触れたい一心で何年も何年も続けてきたのだ。
――愚かな。お前様の手を見てごらんなさい。頬に触れてごらんなさい。
悲しげな声が風に混じる。
――戻らないものに囚われて、お前様が喪ったものを考えてごらんなさい。
崩れかけた巳之吉の身体はそれでも動く。瞳の無い眼窩にも何かが映る。しかしそれは。
――お前様は何が欲しいのです。何を求めているのです。その朽ちた身で一体何をしようと?
「欲しいものなど!」
叫ぶ度に皮膚が割れる。割れて、剥がれて、風に砕ける。
「求めているものなど、たったひとつだ。我が身など朽ちて構わない。惜しいものなどあるものか」
氷像を掴んだ指が折れる。揺る度に腕が軋む。
「お願いだ雪花。何でもする。何でも捧げる」
――何でも? 本当に?
風が鳴る。雪を散らして、頼りない痩せた体躯を打ち据えて。氷を砕いて、柄杓を巻き上げる。
――なんと愚かな……
烈しい風の随に、切なげな呟きが混じる。櫟の枝に掛かった柄杓が、解けるように砕けて風に舞った。それを追うように、煌めく雪華が風に乗る。烈しい風が、何も彼にもを攫ってゆく。
想いも。願いも。
時間さえ――
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